1861(文久元年)2月。東三段目18枚目の時津風宗吉(宮城野)が、横浜在住のイギリス人ラウダと横浜巡業で対戦。頭突きでラウダを気絶させて勝利を収める。同時期、160cmの小兵力士の両国梶之助が、210cmのインド人レスラーを反り落としで破る。
1883(M16)3月。序ノ口の松田幸次郎(伊勢ヶ浜・本名=荒竹光次郎)と序二段の戸田川庄五郎(山響・本名=浜田庄吉)の2人が、プロレスラーを募集する船で渡米する。後に松田が日本人プロレスラー第1号になった。
1884(M17)3月10日。米・ニューヨークを荒竹光次郎が松田虎吉(マツダ・トラキチ)のリングネームでデビューを果たす。相手は英国人エドウィン・ビッピーだった。4月24日にはサンフランシスコ紙が「日本人力士がプロレスラーで大活躍」と報じた。
1885(M18)2月17日。ソラキチ・マツダ(トラキチのなまり)が、米国人女性エルラ・ボンソールと結婚し、永住権を取得する。マツダは強い日本人レスラーの代名詞となり、以後「マツダ」のリングネームを使う日本人選手が現れる。
1887(M20)5月。松田とともに83年に渡米した浜田庄吉が、多くのレスラーを連れて帰国。東京で日本初の国際試合を開催した。欧米大相撲と紹介されたが、客が相撲より長い試合時間に慣れず、興行的には失敗した。
1898(M31)8月17日。米・フィアデルフィアの野球場で力士の大錦太郎市が、プロレスラーのグリーグと対戦。絞め技でTKO勝ちを収める。大錦はハワイ、米国と遠征して同地に訪れていた。
1904(M37)2月。柔道家の三宅多留次が、全国武術選手権優勝の肩書きを持って、イギリスに渡りロンドンで柔道教師になる。数年後、メケ三宅のリングネームでプロレス転向。1928年(S3)の大日本レッスリング普及会の旗揚げにも尽力する。
1904(M37)12月。青森県広前市出身で講道館柔道屈指の実力者・前田光世が、柔道家特使として渡米した。前田は後に「コンデ・コマ」の名前でブラジルに移住して柔道を伝える。グレイシー柔術は前田の教えからスタートした。
1905(M38)7月。前田光世が、米・ニューヨークでヘビー級ボクサーのブッチャー・ボーイと対戦する。1試合目はバックドロップで、2試合目は腕ひしぎ逆十字固めで連勝し、大いに名を上げる。
1908(M41)1月。前田光世がロンドンの世界レスリング・チャンピョン大会でヘビー級2位になる。以後、欧州を転戦し、スペインで伯爵号「コンデ」を取得。同年キューバに渡り「コンデ・コマ」の名前で活躍。(コマは日本語の「困る」を縮めたもの)
1908(M41)4月3日。米・シカゴでフランク・ゴッチ(米国)が、欧州王者のジョーッジ・ハッケンシュミットを2時間3分、足首固めで破る。08年に初代プロレスリング世界王者を名乗り、これが近代プロレスの発祥とされる。
1910(M43)3月。前田光世(コンデ・コマ)が、メキシコシティーの闘牛場でトルコ人レスラーのゴドラリーと対戦。腕ひしき逆十字固めで勝利を収める。前田は初代世界王者フランク・ゴッチにも対戦要求をしていたが、実現できなかった。
1911(M44)米・シカゴで初代世界王者ゴッチが、欧州王者ハッケンシュミットとの再戦に勝利して、王座を守る。ゴッチは2年後の13年、世界王者で無敗のまま引退した。
1914(T3)5月14日。横綱の太刀山峰右衛門(友綱)にパリで開催される世界プロレス大会への出場依頼がきたと、時事新報が報じる。その後、大会自体が中止になったが、太刀山は仏壇返し(呼び戻し)で戦うと抱負を述べていた。
1915(T4)前田光世(コンデ・コマ)がブラジル・ベレン市に移住する。18年からヒクソン・グレイシーの祖父ガスタオンやその長男カルロスに柔道を伝授した。カルロスはグレイシー柔術の創始者といわれる。
1921(T10)3月5日。講道館が米国人レスラーのアド・サンテルとヘンリー・ウエーバーの挑戦を受けて、東京・靖国神社で2日連続の日米国際試合を行う。庄司彦男4段、清水1段らが迎え撃ったが、結果は引き分け。日本勢は講道館から破門される。
1921(T10)17歳で単身渡米した松田万次郎がテキサスで、マティ・マツダのリングネームでジュニアウエルター級世界王座に就く。マツダは日本人で初めて世界王座を射止めた人物といわれる。当時42歳だった。
1924(T13)11月14日。「力道山」こと金光浩が、長崎県大村で生まれる。これはプロレスラーになってから公表されたプロフィールで、金信済の名前で朝鮮に生まれたという説もある。後に金村光浩、百田光浩と改名した。
1928(S3)10月。相撲の年寄・千賀ノ浦(元関脇綾川五郎次)が、力士関の川と若響をプロレス転向させて、大日本レッスリング普及会を設立した。後に英国で活躍したメケ三宅の尽力で外国人レスラーも呼び「力士日英レッスリング競技会」を開く。
1931(S6)11月。ハワイ相撲王者の沖の海(後の沖識名)がプロレス転向して、ハワイに住むメケ三宅に弟子入をりした。沖識名は力道山、馬場、猪木らをコーチし、レフリーとしても活躍した。
1935(S10)2月。力道山が二所の関部屋に入門、5月に初土俵を踏んだ。当時の相撲協会の記録で身長175cm、体重84`になっている。力道山は力士時代のシコ名。
1941(S16)11月27日。コンデ・コマ(前田光世、30年にブラジルに帰化)が死去した。講道館は世界に柔道を広めた功績に対して、7段を贈った。
1947(S22)6月。前頭8枚目の力道山が、大相撲・夏場所で9勝1敗の成績を収め、4人参加の優勝決定戦に進出。横綱羽黒山(立浪)に敗れて優勝を逃す。
1949(S24)米・セントルイスにNWA(全米レスリング連盟)が誕生した。初代会長はピンキー・ジョージ、初代NWA世界ヘビー級王者にルー・テーズが認定された。アメリカン・プロレスの黄金期が始まる。
1949(S24)5月5日。柔道家の木村政彦が、柔道全日本選手権大会で優勝する。この時、力道山は5月場所で自己最高位の関脇に昇進した。2人は54年12月22日、蔵前国技館で初の日本選手権試合を行うことになる。
1950(S25)4月16日。GHQの指令で師範の立場を無くした柔道家たちが、プロ柔道の「国際柔道協会」を設立した。同29日には木村政彦が、山口利夫を破ってプロ柔道初代日本王者になった。
1950(S25)9月11日。力道山が大相撲を関脇で廃業した。理由は病気説(肝臓ジストマ)と親方との不中説がある。幕中在位は11場所、幕内成績は75勝54敗15休、3賞は殊勲賞1回。
1951(S26)4月。柔道家木村政彦がブラジルで、前田の直弟子でヒクソン・グレイシーの父エリオと対戦。左腕を骨折させてTKO勝ちした。以後、日本人によるグレイシー撃破は、99年12月に桜庭がホイラーを破るまで48年間かかった。
1951(S26)9月15日。朝鮮戦争の慰問に訪れたボクシング元世界ヘビー級王者ジャオー・ルイスと共に、元世界プロレス王者ボビー・ブランズ、ハワイ出身の日系レスラーのハロルド坂田が来日。2人は力道山をスカウトし、プロレスを指導した。
1951(S26)9月30日。B・ブランズ、ハロルド坂田ら在日外国人だけのプロレス興行が、東京メモリアルホール(両国国技館)で開催された。観客は進駐軍とその関係者が大半だったが、力道山がこの試合を観戦した。
1951(S26)10月15日。力道山がプロレス転向を表明。B・ブランズ、ハロルド坂田の指導のもと、東京・芝のシュライナース・クラブ(旧海軍の水交社)で練習を開始する。プロ柔道に参加していた遠藤幸吉も同時に転向した。
1951(S26)10月28日。力道山がプロレスデビューした。メモリアルホール(旧両国国技館)4度目の興行で、師匠のB・ブランズと10分1本のエキシビションマッチを行った。結果は時間切れ引き分け。初のプロレスで試合後はリングに大の字になった。
1951(S26)11月18日。ボクシング元世界ヘビー級王者ジョー・ルイスが後楽園球場でプロレスの試合に登場。力道山も前座でオビラ・アセリン(カナダ)と10分1本で戦い、引き分けた。大会は観客1万人を動員した。
1952(S27)2月3日。力道山がプロレス修行の為、単身で初渡米した。GHC司法局のフランク・スコリーノの橋渡しのもと、B・ブランズとの契約で1年1ヶ月の海外修行になった。
1952(S27)2月3日。力道山がハワイ・ホノルルで海外初試合を行う。チーフ・リトル・ウルフに8分40秒、体固めで勝利を収める。ファイトマネーは12jだった。力道山はハワイ滞在中、沖識名から本格的なコーチを受ける。
1952(S27)4月1日。空手の大山倍達(後の極真会館館長)と遠藤が初渡米。日系レスラーのグレート東郷のマネジメントの元、マス東郷(大山)、コウ東郷(遠藤)と名乗って「東郷3兄弟」を結成。米国各地を転戦した。
1952(S27)6月23日。力道山が米・サンフランシスコでプリモ・カルネラと組み、ベンとマイクのシャープ兄弟が持つNWA世界タッグ王座に初挑戦。時間切れ引き分けに終わる。
1952(S27)6月26日。力道山が米・サンフランシスコでレオ・ノメリーニと対戦し、初めての敗北を喫した。ノメリーニは当時アメフトの「サンフランシスコ49ers」の主将でプロレスラーとしても活躍した大スターだった。
1952(S27)7月28日。遠藤幸吉が米国本土からハワイに到着。米、カナダ、キューバ、ハワイの転戦で柔術の特別試合も含めて110戦75勝15敗20分けの成績を残した。再度、沖識名のコーチを受けて10月に帰国した。
1953(S28)3月6日。力道山が1年1ヶ月の米国修行から帰国した。260試合以上を戦って、黒星はシングルで3試合(レオ・ノメリーニ、タム・ライス、フレッド・アトキンス)、タッグで2試合の計試合だけだった。
1953(S28)
日本プロレス興行株式会社を設立した力道山が、東京・日本橋浪花町の力道山道場で日本プロレス協会の発会式を行う。協会会長は酒井忠正(横綱審議委員会会長)。パーティ後は遠藤幸吉とのエキシビションマッチでプロレスをアピールした。
1953(S28)10月30日。力道山が翌年に控えるプロレス興行の本格始動に向けた準備の為、ハワイに渡航した。この段階ですでに、空手チョップを完成させ、プロレスのプロモーターとしての知識も備えていたといわれる。
1953(S28)
12月6日。力道山がハワイのホノルルで、NWA王者ルー・テーズに挑戦する。パワーボムに似た変形パイルドライバーを食らって気絶。TKO負けを喫した。
1954:(S29)2月6日。NHKが初のプロレス実況中継を行った。山口利夫らが出場した「マナスル登山後援募金・日米対抗プロレス」(大阪府立体育館)を関西から静岡県にかけて、地域限定ながら放送した。
1954:(S29)2月17日。力道山−木村の日本ヘビー級王座決定戦が正式に決定され、調印式が行われる。レフェリーにはボクシング経験を持つ登喜、木村のセコンドには極真空手の大山倍達がついた。
1954:(S29)2月19日。日本で初のプロレス国際試合を日本プロ・レスリング協会が東京・蔵前国技館で3日連続興行の初日を行う。メーンは力道三、木村組−シャープ兄弟の61分3本勝負。結果は1−1で時間切れ引き分け。観衆1万3000人を集め、本格的なプロレスが幕開けした。(日プロ)が蔵前国技館で3日連続興行の初日を行う。メーンは力道三、木村組−シャープ兄弟の61分3本勝負。結果は1−1で時間切れ引き分け。観衆1万3000人を集め、本格的なプロレスが幕開けした。
1954:(S29)2月20日。日本プロ・レスリング協会(日プロ)の蔵前国技館興行2日目。3大シングルマッチが行われ、力道山は2−1でベン・シャープに勝利。山口利夫は1−2でマイク・シャープに敗北、木村はB・ブランズと引き分けた。
1954:(S29)2月21日。日本プロの蔵前国技館興行3日目。力道山、木村組がNWA世界タッグ王者のシャープ兄弟に挑戦。1−1で迎えた3本目で両軍リングアウト。王座移動はなく、興奮したファンが座布団を投げた。3日間の興行で日本中がプロレスに熱狂した
1954:(S29)2月29日。NWA世界タッグ王者ベンとマイクのシャープ兄弟が来日。日本初の本格的なプロレス国際試合参加のため。力道山の師B・ブランズ、レフェリーの沖識名も来日した。
1954:(S29)3月山口利夫が日プロに対抗して、大阪で全日本プロ・レスリング協会を立ち上げた。柔道4段の樋口寛治(後のジョー樋口)や出口一(後のミスター陳)らが参加。大阪府立体育館で14日〜16日まで興行を行った。
1954(S295月。木村政彦が地元の熊本に、3つ目の団体である国際プロ・レスリング団を旗揚げした。同団体と山口の全日本プロ・レスリング協会の存在により、力道山は日本全国を網羅するプロレス協会の設立に失敗した。
1954:(S29)8月6日。力道山、敦河組が太平洋岸タッグ王者のシューナベル、ニューマン組とノンタイトルで対戦。61分3本勝負は0−1で敗れた。この日から豊登がプロレスに転向した。
1954:(S29)8月25日。日本初の6人タッグ戦が東京体育館で行われた。力道山、遠藤幸吉、沖識名組とシューナベル、ニューマン、駐留軍のオルソン組が対戦。2−1で力道山組が勝利した。
1954:(S29)9月10日。力道山、遠藤幸吉組が太平洋岸タッグ王座を獲得した。大阪府立体育館で王者のシューナベル、ニューマン組に挑戦。2−0で勝利して、日本で初めて国外のタイトルを獲得した。
1954:(S29)11月19日。蔵前国技館で女子プロレス国際大会が開かれる。女子プロレス世界王者ミルドレッド・バーグ(米国)らが参戦した。この時期、プロレスブームに乗り、多くの女子プロレス団体が設立された。
1954:(S29)11月25日。国際プロの木村政彦が「力道山のプロレスはジェスチャーが多いショーだ」と批判。激怒した力道山に実力日本一決定戦を要求した。マスコミは「昭和巌流島の決闘」とあおった。
1954:(S29)12月。元横綱の東富士が大相撲を正式に廃業し、プロレス転向を表明した。現役時代は優勝6回、幕内通算成績は261勝104敗分54休。同年10月に引退していた。
1954:(S29)12月22日。東京・蔵前国技館で力道山が木村と対戦し15分49秒、KO勝ちで初代日本ヘビー級王座に就く。だが、流血を伴う凄惨な試合内容に世間の非難が集中。以後、プロレスは異端視されるようになる。
1955:(S30)4月17日。ハワイ・ホノルルで力道山、東富士組が、B・ブランズ、シモノビッチ組を破って、ハワイタッグ王座を獲得した。東富士はマゲをつけたまま戦い、大歓声を浴びた。
1955:(S30)7月17日。ハワイのプロモーターのアル・カラシックから日プロあてに「NWA王者ルー・テーズが力道山の挑戦を受ける」との電報が届いた。力道山は2年後、後楽園球場でテーズに挑戦することになる。
1955:(S30)7月28日。ハワイタッグ王者の力道山、東富士組が、中米タッグ王者のオルテガ、カーチス組とダブルタイトルマッチを行う。1−1で迎えた3本目は負傷引き分けで決着がつかず。両軍防衛に終わる。
1955:(S30)9月10日〜11日。東京・両国で全日本女子プロレスリング王座決定トーナメントが開催される。猪狩貞子、田山勝美組が、女子タッグ初代王者に輝く。観衆8000人を集めたが、以後の女子プロレス団体乱立と興行連発で徐々に衰退した。
1955:(S30)11月15日。アジアタッグ王座決定戦決勝が行われる。キング・コング、タイガー・ジョキンダー組が、2−1で力道山、ハロルド坂田組を破って、初代王座に就く。
1955:(S30)11月22日。力道山が初代アジアヘビー級王者に輝く。キング・コングと対戦し、7分6ラウンドの試合は引き分け。61分1本勝負の延長に突入し、力道山が30分50秒、リングアウトで勝利を収めた。
1955:(S30)12月28日。力道山の伝説映画「怒涛どとうの男」が公開される。製作は日活、プロデューサーは作曲家の古賀政男、主題歌は美空ひばりと豪華な作品。美空は映画にも特別出演し、力道山と共演した。
1956:(S31)4月17日。国際プロ・レスリング団の興行に、木村政彦がメキシコから呼んだラウル・ロメロ、ラモン・ロモ、ヤキ・ローチャの3選手が出場。日本で初めて、ルチャ・リブレのマスクマンが登場した。
1956:(S31)5月4日。力道山、遠藤組がシャープ兄弟の持つNWA世界タッグに挑戦した。大阪府立体育会館で時間無制限一本勝負で行われ、力道山が39分34秒、ベンを体固めで破って、悲願の王座初奪取を達成した。
1956:(S31)5月19日。世界タッグ王者の力道山、遠藤組が、札幌中島体育センターで、シャープ兄弟とのりターンマッチに敗れた。力道山組はわずか15日で王座を失い、シャープ兄弟は同年6月14日にベルトを持ったまま、帰国した。
1956:(S31)10月24日。日本で初めてウエート別の選手権が開かれる。ライトヘビー級は芳の里、ジュニアヘビー級は駿河海が優勝。ヘビー級は山口利夫と東富士が引き分け。1週間後の同30日に再戦し、東富士が優勝した。
1957:(S32)4月30日。力道山が米・セントルイスでNWA世界ヘビー級王者ルー・テーズと接触。日本での世界タイトルマッチ開催契約を取り付けて、正式に調印した。
1957:(S32)7月2日。豊登りがハワイ・ホノルルでルー・テーズのNWA王座に初挑戦した。結果は1−2で王座奪取ならず。最後は王者のバックドロップに沈んだ。
1957:(S32)10月2日。NWA世界ヘビー級王者ルー・テーズが力道山との王座戦のために初来日した。VIP扱いで、宿泊は東京・日比谷の帝国ホテル。歓迎パーティーには自民党副総裁の大野伴睦、社会党の浅沼稲次郎らが出席した。
1957:(S32)10月7日。力道山がNWA王者のルー・テーズ初挑戦。相手のバックドロップを河津掛けで防ぐ死闘を展開。結果は61分3本勝負でノーフォールのまま時間切れドロー。後楽園の観衆は2万7000人。テレビ視聴率は87%と驚異的な数字を記録した。
1957:(S32)10月13日。力道山がNWA王者ルー・テーズに再挑戦。3本勝負で@テーズ(体固め、15分0秒)A力道山(体固め、10分40秒)B(両者リングアウト、6分53秒)の1−1で引き分け。大阪・扇町プールに3万人を集めた。
1958:(S33)8月27日。力道山が米・ロサンゼルスでテーズに2−1で勝利。第2代インター王者になる。(当時、NWA王座はディック・ハットンが保持)。同王座は後に全日本プロレスに定着し、現3冠王座(UN、PWF、インター)の一角を成す。
1958:(S33)10月2日。インター王者力道山が、「殺人台風」ドン・レオ・ジョナサンの挑戦を受ける。1−0で初防衛に成功。(同時に日本ヘビー級王座を返上)。力道山は63年に他界するまで、同王座を20回も防衛した。
1959:(S34)3月24日。力道山が、プロレス人気回復のために「第1回ワールドリーグ戦」を計画。渡米して世界の強豪7人と契約を結ぶ。当時、プロレスは2年前のテーズ来日を頂点に人気が急降下していた。
1959:(S34)5月21日。「第1回ワールドリーグ戦」が開幕。参加選手は10人。日本は力道山、遠藤幸吉、豊登の3人。海外からはオルテガ(メキシコ)コング(ハンガリー)プレチェス(米)シン(インド)アトミック(ドイツ)ブレアーズ(英)トレースの7人。
1959(S34)6月15日。東京体育館で「第1回ワールドリーグ戦」優勝決定戦が開催される。力道山が4人参加のトーナメントを制して優勝。同リーグは大成功を収め、63年の第5回大会まで毎年開催された。(力道山が5連覇)
1960:(S35)4月10日。力道山が、ブラジル遠征で猪木完至(後に寛至と改名)をスカウトして帰国する。猪木は当時、17歳でブラジルの砲丸投げと円盤投げのジュニア記録を保持していた。
1960:(S35)4月11日。日プロが馬場正平と猪木寛至の入団を発表する。プロ野球・大洋ホエールズの投手だった馬場は、この年の春季キャンプで左腕を負傷。プロ野球を断念していた。
1960:(S35)9月30日。東京・台東区体育館で馬場と猪木が同時にデビュー。馬場は田中米太郎に5分15秒、股裂きでギブアップを奪って白星。猪木は大木金太郎に7分9秒、逆腕固めで破れて黒星。両者の明暗はくっきり分かれた。
1961(S36)4月28日。「密林男」グレート・アントニオが、第3回ワールドリーグ参加のために来日。東京・神宮外苑で鎖につながれたバス4台を1人で引っ張るデモンストレーションを敢行。1万人のファンの度肝を抜き、一大ブームを巻き起こした。
1961:(S36)7月30日。力道山が東京・渋谷に巨大スポーツジム「リキ・スポーツパレス」を完成させる。総工費は約30億円で3000人収容のプロレス会場、男女別のスポーツジム、ボウリング場、レストランなどを備えていた。
1962(S37)3月28日。力道山が、米・ロサンゼルスでWWA王者の「銀髪鬼」フレッド・ブラッシーに挑戦。2−0で勝利して、第2代wwa世界ヘビー級王座に就く。WWAは当時、太平洋沿岸を中心とした新興勢力だった。
1962(S37)4月27日。「銀髪鬼」フレッド・ブラッシーが、かみつき攻撃でG・東郷を大流血させる。試合の生中継を見た視聴者4人がショック死する事件が発生。プロレスのテレビ中継に批判が集中した。
1962(S37)7月25日。力道山が米ロサンゼルスでブラッシーとWWA世界ヘビー級王座防衛戦を行う。不可解なレフェリーストップで負けにされ、王座転落。力道山は帰国後、WWAへの不信感をあらわにした。
1962(S37)8月18日。リキ・スポーツパレスで、テレビドラマ「チャンピオン物語・チャンピオン太」の収録が行われる。力道山は猪木扮する「死神酋長」相手に好演。猪木も得意のポルトガル語で大熱演。
1962(S37)11月3日。猪木が、アントニオ猪木に改名。当初は「死神酋長アントニオ猪木」の予定だったが、長すぎるために却下。アントニオはブラジル時代の猪木のファースト・ネーム。名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかったとも言われる。
1963(S38)2月4日。馬場が、米ロサンゼルスでザ・デストロイヤーの持つWWA世界ヘビー級王座に挑戦した。反則勝ちを収めるが、コミッショナーの規定により王座移動はせず。初の海外遠征でベルト奪取はならなかった。
1963(S38)5月17日。第5回ワールドリーグ決勝が行われ、力道山がコワルスキーを破って5連覇を飾る。16人参加のリーグは盛況だったが、力道山にとってはこれが最後のリーグ戦となった。
1963(S38)5月24日。力道山がWWA王者デストロイヤーと対戦。相手の4の字固めで両者がこう着してレフェリーストップ。白熱の攻防にテレビ視聴率は53%を記録した。
1963(S38)12月。島田源一郎(後の天龍源一郎)が、大相撲のニ所ノ関部屋に入門。当時中学2年生の少年だった。
1963(S38)12月4日。力道山が、デストロイヤーとインター王座防衛戦を行う。21分25秒、両者リングアウトで19回目の防衛に成功。だが11日後に力道山が急逝するため、この後、約2年間、インター王座は封印される。
1963(S38)12月7日。静岡・浜松市体育館で力道山が、G・東郷、吉村道明と組んで、デストロイヤー、オースチン、パオロ組と対戦する。この6人タッグ戦が力道山の最後の試合になる。
1963(S38)12月9日。力道山が、午前1時30分に、東京・赤坂の山王病院に担ぎ込まれる。前日8日に刃物で腹部を刺されたことが原因。開腹手術を施して、緊急入院をする。担当医師は「経過は良好」と話した。
1963(S38)12月15日。入院中の力道山が、腸閉塞を併発しておることが判明。再手術を受けたが、午後9時50分、39歳の生涯を閉じる。この時の付き添いは敬子夫人、アントニオ猪木、平井光明だった。
1963(S38)12月16日。力道山の仮通夜が行われる。この日、豊登を中心に新しい選手会が発足。全選手の選手会加盟、全員が発言権と投票権を持つこと、選手の身分、福祉が保証されることを決定。これにより合議制の新体制がスタートした。
1963(S38)12月20日。力道山の葬儀が、東京・大田区の池上本門寺で行われる。葬儀委員長は児玉誉士夫。弔辞は芸能界を代表して伴淳三郎が述べた。葬儀には12000人が参列。リキ・スポーツパレスでは追悼試合も開催された。
1964(S39)2月20日。豊登、吉村組がマノキャン、イアウケア組を破ってアジアタッグ王座を獲得する。同王座は63年12月の力道山死後、空位になっていた。
1964(S39)3月19日。猪木がハワイで豊登と会談。猪木を迎えにきていた日プロの吉村に「一緒には帰国できない」と連絡。翌20日に国際電話でマスコミを通じて、電撃的なフリー宣言をした。
1964(S39)3月28日。日プロの新体制発足披露パーティーが、東京・赤坂のホテル・オークラで開かれる。新会長は児玉誉士夫、コミッショナーは自民党副総裁の大野伴睦ガ就任した。
1964(S39)5月12日。豊登が、第6回ワールド・リーグ戦で初優勝を飾る。決勝戦でキニスキーのニードロップを場外で自爆させてリングアウト勝ちした。力道山の死後、最初のWリーグ戦だったが、テレビ視聴率は35%〜40%。プロレス人気は安定期に入っていた。
1965(S40)4月8日。アマレス東京五輪代表の斎藤昌典(後のマサ斎藤)が、第7回ワールド・リーグ戦の開幕式でファンに挨拶、初の五輪代表レスラーが誕生した。斎藤は3月に明治大学を卒業してプロ転向。同年6月3日に札幌でプロデビューした。
1965(S40)11月24日。G・馬場が第3代インター王座に就く。ディック・ザ・ブルーザーと新王座決定戦で対戦。2本を連取し、力道山の死後、約2年間も空位だった同王座を復活させた。同王座は近年では、全日本3冠の一つ。
1964(S41)2月17日。日プロを追われた豊登が、新間信雄(猪木−アリ戦実現に尽力した新間寿の父)と会談。新団体・東京プロレスの旗揚げ構想が完成する。エースに猪木を据える計画を立てた。
1966(S41)10月12日。東京プロレスが東京・蔵前国技館で旗揚げ興業を行う。猪木がジョニー・バレンタインと、時間無制限1本勝負、ギブアップとKOのみのルールで対戦。この試合を指して日本で初めて「デスマッチ」という言葉が使用された。
1966(S41)11月21日。東京プロレスが東京・板橋の板谷駐車場大会を突如、中止にする。怒った観客が大暴動を起こす。マッチメークや日程の変更で不評を買っていた東京プロレスは、これを機に一気に信用を落とした。
1967(S42)1月5日。吉原功率いる国際プロレスが、大阪府立体育館で旗揚げ興業を行う。目玉カードのヒロ・マツダ−ダニー・ホッジのNWA世界ジュニアヘビー級王座戦は、60分時間切れ引き分け。東京プロレスの猪木も特別参加した。
1967(S42)1月8日。猪木が豊登との金銭トラブルで絶縁。新たに東京プロ・レスリング株式会社を設立し、国際プロ業務提携する。豊登との争いは泥試合となり、最初の東京プロレスは事実上崩壊した。
1967(S42)2月17日。柔道の全日本選手権で優勝経験のある坂口征二が、日本プロレスに入団する。坂口は当時26歳で、明大−旭化成と進んだ柔道界のエリート。柔道関係者の反対を押し切ってプロレス入りした。













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