野球ネタ集
●なぜ野球は9回まで?
●内野手は外野で守れるか
●本塁だけなぜ五角形?
●プロ野球のビールかけのルーツ
●球場の大きさが違うのはなぜ?
●監督がユニフォームを着ているわけ
●背番号18がエースナンバーと呼ばれるわけ
●野球の審判の呼び名はなぜ「アンパイヤ」
●助っ人外国人選手の背番号
●甲子園のスタンドはなぜアルプススタンドと呼ぶの?
●大リーガーでよく唾を吐いてるけどなぜ?
●野球場の方角
●日本野球初期のルール
●プロ野球の審判

●なぜ野球は9回まで?
野球は1839年に考案されたスポーツといわれていて当時のルールは、どちらかが21点先取した方が勝者となっていて娯楽性が高く試合終了後には「打ち上げ」の飲み会をするのが常だったんです。21点先取制だとものすごく早く勝敗が決まることがあったり、逆になかなか試合が終わらなかったり終了時間が読めません。このルールに悩まされていたのが打ち上げの料理を作るコックたち。一体どのタイミングで料理を用意すればいいのか、毎回悩みの種だったんですね。そしてついに、ニューヨークの野球チーム・ニッカーボッカーズの専属シェフたちからクレームがありました。そのクレームを受け、ある程度終了時間の予測がつけられるようにと回数制が導入されたのです。野球の誕生から6年後の1845年のことでした。ではなぜ「9回」なのでしょうか?当時のアメリカでは12進法の影響が強く、12の3/4である9回が採用されたと言われています。たしかにストライクやアウトのカウントも3回です。ちなみに「ボール」は後になって導入されたルールのため4回までとなっていますが、もし当時から存在したルールなら3回までとなっていたかもしれませんね。なぜ回数が12回ではなく9回なのかについて、はっきりとしたことはわかっていないのですが、12回では打ち上げのビールが気になって気になって試合に集中できなくなるからなのかな、なんて思っちゃいました。なにしろ当時は試合の結果よりも打ち上げの方が大事だったという話もあるくらいですから。
●内野手は外野で守れるか
 野手の守備位置は、最もヒットが出にくいように考えられたものです。しかし野球規則上は、フェアグラウンド内なら、バッテリー以外の野手はどこを守っても構いません。
40年、イースタンリーグの大洋(現横浜)は、絶対バントという場面で、レフトがサードの前で守りました。
 他には有名な王シフトがあります。43年に中日は、1、2塁間に内野手全員が位置し、2塁と3塁の間には誰もいないという極端なシフトとなりました。
 また、47年の日本シリーズで阪急は、ショートの定位置にサードが守り、ショートはセンターの定位置まで下がりました。打球はセンターへのフライだったのでショートの大橋が捕球し、記録上はショートフライとなりました。
 これらのシフトは、打球の方向を計算した上で行ったわけですが、もし逆の方へ飛んでいたら、大変なことになりますね。
●本塁だけなぜ五角形?
 
野球のホームベースが五角形なのはなぜ?プロ野球のコミッショナー事務局によると「現在のような形での野球は19世紀の前半にアメリカで誕生したとされていますが、当初はホームベースは正方形でした」。しかも、今のようなゴム製ではなく、キャンバス製と推測されているとか」。「その正方形のベースを1塁線と3塁線に沿うように、つまり、他のベースと同じように角を合わせて置いていたので、球筋とベースの辺が平行にならず、内角ギリギリのボールは判定を誤りやすかったのです。そこで、正方形のベースを平行に置き、かつダイヤモンドのラインに合うようにした、五角形が誕生した。「アメリカで五角形のホームベースが正式に採用されたのが1900年。日本では、野球が輸入された1906年から使われています」。
 ちなみに、1〜3塁のベースがキャンバス製になったのが1877年。それまでは石ころや木切れなどでベースを作っていたそうです。
●プロ野球のビールかけのルーツ
 
アメリカ合衆国では、メジャーリーグを始めとして多くのスポーツにおいて、古くから優勝者や優勝したチームがシャンパンをかけ合って喜ぶ習慣(シャンパンファイト)があったが、日本にはもともとこのようなものは存在せず、優勝が決定しても、選手や監督はビールで乾杯をする程度だった。日本では、1959年(昭和34年)、南海ホークスが4年ぶりにリーグ優勝を決めたあとという説と、ホークスが1959年の日本シリーズで読売ジャイアンツを破って日本一となったあとという説があるが、いずれによっても、東京都中野区の「中野ホテル(当時の南海の選手宿舎。現存せず)で開かれた祝勝会の折にカールトン半田(日本名・半田春夫)内野手が、他の選手にビールをかけたことが起源であるとされる。ハワイ生まれの日系二世でマイナーリーグでプレーした経験もあり、アメリカのシャンパンファイトの風習を知っていた半田は、せっかく優勝したのにビールの乾杯だけで済ませてしまうのは寂しいと思い、「アメリカでは、優勝したらこうするんだぜ」と言いながら突然、杉浦忠投手の頭にビールをかけた。一瞬、周囲の選手たちは「何をするのか」とあっけにとられたが、やられた方の杉浦がすかさず反撃して半田にビールをかけたところ、「面白そうだ」とその場にいた人間があっという間に真似をし始めた。厳格な指導法で知られた鶴岡一人監督は、最初は何が始まったのか理解できない様子だったが、そのうち自分の顔にもかけられて喜んでいたという。これに関し、当時、参加した野村克也は後に「巨人に勝った年の祝勝会で、旅館の畳の上でいきなりやってしまい、旅館に滅茶苦茶怒られた」というエピソードを明かしている。これは会場が畳部屋で、祝勝会の終了後は部屋が使用できなくなってしまった(畳を全て交換する必要が生じた)ためであり、球団に対しても旅館から厳重な抗議申し入れがあったという。半田はこれにとどまらず、もう一人の外国人選手だったジョン・サディナとともに、選手たちにコーチの蔭山和夫と柚木進を胴上げしてユニホームのまま風呂に投げ込むことを提案して実行したことを、鶴岡が著書で記している。その後南海が日本シリーズで読売ジャイアンツを破って悲願の日本一となった後の祝勝会(最終戦が後楽園球場だったため、こちらも中野ホテルが会場)でもビールかけが行われ、ビールを浴びた選手たちはユニホーム姿のまま風呂に飛び込んで喜びを爆発させたという。 これ以後、ビールかけは日本のプロ野球の伝統的な風習として定着するようになり、翌1960年に大毎オリオンズがリーグ優勝を決めた際のニュース映画にはビールかけをする大毎選手が映っている[5]他、2年後の1962年に阪神タイガースがリーグ優勝したときの新聞記事には「頭からビールをぶっかけられておどり上がるソロムコ選手」という記述があり、この時点でセントラル・リーグの球団にも伝わっていたことが分かる。なお映像として残っているものとして前述の大毎の例の他、1966年に読売ジャイアンツがリーグ優勝した際に行われたものを日本テレビが収録した映像が最古と見られている。会場は、選手宿舎のガーデンや球場の駐車場など、広いスペースを確保できる場所を利用することが多い。1979年(昭和54年)にプレーオフを制しパ・リーグ初優勝を果たした近鉄バファローズは日本生命球場[※ 3]で、1991年(平成3年)にセ・リーグ優勝を決めた広島東洋カープは広島市民球場で、2015年(平成27年)にセ・リーグのレギュラーシーズンを優勝した東京ヤクルトスワローズはホームゲーム最終戦のセレモニーを兼ねて明治神宮野球場で、それぞれファンが見守る中で挙行している。近年は派生としてサヨナラゲームの際、サヨナラ打点を挙げた打者に仲間達がペットボトルのミネラルウォーターをかけて称えることがある。参加する側からは、日本プロ野球では、村田真一が、自己の所属するチームの1989年などの優勝に際してのビールかけについて、「おれら、みんな一緒に喜び合える。思いっきりバカになってね。それが素晴らしい。生きててよかったと思うよ、ホンマ」と言っている例がある
●球場の大きさが違うのはなぜ?
 
野球場の外野とファウルゾーンが球場によりまちまち(ダイヤモンドの形状は一定)なのは、アメリカの野球、野球場の歴史に根源があります。そもそも、野球はニューヨークの対岸にあるニュージャージーのバテリーパークの野原で生またとされています。初期のルールの整備もここで決まっていったと考えられています。野原ですから、外野の大きさは林までとか道路までと行った草野球規格で、それが後々まで続くわけです。
アメリカにおける初期のプロ野球は、都市の一ブロック分の広さで行われました。アメリカの都市に良くある、ストリートとアヴェニューに囲まれた大凡四角形の土地です。ここの一角にダイヤモンドと観客席を設置し、外野は、道路との境目に金網を張ったものでした。ですから、外野までの距離はその区画の大きさで決まってしまいます。この大きさが、都市の構造や都市内の位置によって違うので、結果、外野フェンスまでの距離もばらついてしまったのです。敷地が長方形だと両翼の距離が違ってきます。
その後、人気が出るにつれ、スタンドが拡大されたり、郊外に移転したりしましたが、それでも、それ以前の伝統で外野フェンスやファウルグランドの形は統一されませんでした。
野球のルールでは、ダイヤモンドの形状は規定されていますが、外野フェンス、ファウルエリアについては、最低限の距離だけが規定されており、それ以上については決まっていません。
●監督がユニフォームを着ているわけ
 
野球ができたばかりのころの名残と言われています。野球が誕生した当初は、監督という存在はなく、各チームのキャプテンとなる選手が、チームの指揮を執っていました。キャプテンは試合に出場するため、当然ユニフォームを着ていました。その名残で、現在の監督もユニフォームを着ていると言われています。日本のプロ野球でも、1977年までは野村克也捕手が、2006年と2007年の2年間は古田敦也捕手が、選手兼監督を務めていました。また、社会人野球では、2010年に、茨城ゴールデンゴールズの片岡安祐美選手が選手兼監督になっています。
 もうひとつの理由としては、監督がフィールドに入れるということです。もちろん、プレーが止まっているときだけですが、野球の監督は、フィールドに入って審判に抗議することができますし、マウンドへ行ってピッチャーに声をかけることもできます。そのため、監督も選手と同じように、ユニフォームを着ているとも言われています。
 因みにメジャーリーグでは、ユニフォームを着ず、スーツにネクタイ、そしてハットをかぶった監督というのがいました。彼の名前はコニー・マック。1894年から3年間は選手兼監督を務め、選手引退後はなんと50年間も監督として指揮を執り続け、アメリカンリーグを9回、ワールドシリーズを5回も制覇した名監督です。1934年に、ベーブ・ルース選手やルー・ゲーリッグ選手といった名選手を擁し、メジャーリーグ選抜対日本野球選抜チームを戦った監督でもあります。生涯で一度も退場処分を受けたことがない監督としても知られていて、スーツ姿のコニー・マック監督は、まさに紳士だったと言われています。コニー・マック監督はなぜユニフォームを着なかったのでしょうか。それは彼が長身でやせていて、ユニフォームが似合わなかったからだそうです。どうやら、おしゃれにとても気をつかう監督だったようです。
●背番号18がエースナンバーと呼ばれるわけ
 
なぜ、18がエースナンバーと呼ばれるのか。それには諸説ありますが、歌舞伎界で得意としていた演目を「歌舞伎十八番」(おはこ)といったことから、得意とする芸という意味で「十八番」が使われるようになった。そこから派生して、野球界でも一番秀でているものが「十八番」とされてきたという見方。また、球界の中心に座る巨人において、藤田元司氏、堀内恒夫氏、桑田真澄氏という好投手が18番をつけていたことから、徐々に「18番=エース」となっていったという見方もある。桑田に憧れた投手も多く、松坂大輔が西武に入団するときも「18」をつけ、入団会見では桑田への憧れを口にしている。各球団でエース背番とされているもの(中日では「20」、横浜では「17」など)がありながら、彼らの輝かしい成績によって「18」は自然とエースナンバーとなっていった。
●野球の審判の呼び名はなぜ「アンパイヤ」
 
審判にはレフェリーとアンパイアがあります。アンパイアは所定の位置に立って判定を下す審判。アンパイアと呼ばれる競技は野球の他にバトミントン、テニス、卓球、バレーボールなどで審判位置が決まっている競技に用いられます。
レフェリーは選手の動きに合わせてフィールド内を動き回る審判。レフェリーと呼ばれる競技はバスケ、ボクシング、ホッケー、ラグビー、レスリング、サッカーなど。
●助っ人外国人選手の背番号
 
44番はメジャーでホームラン記録を持っていたハンク・アーロンが付けていたもの、それにあやかって好まれています。他にも42番なども好まれています。42番と言えばジャッキー・ロビンソンが付けていたものです。42番は今ではメジャーリーグでは彼の偉業をたたえ、1997年に全球団永久欠番となりアメリカでは付けたくても付けられないとてもありがたい番号です。日本人には「死に」という言葉で忌み嫌われる事もありますよね。
●甲子園のスタンドはなぜアルプススタンドと呼ぶの?
 
全国中等学校優勝野球大会に続いて、選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会)も、第2回からは甲子園球場で開催されることになりました。中等学校野球(現在の高校野球)の人気が高まっていくなかで、巨大球場と言われていた甲子園球場でも、観客席の拡大が課題となりました。そして1929年、増え続ける観客を収容するための工事が行なわれ、外野のファウルゾーン東西の20段の木造スタンドは、50段の鉄筋コンクリート製へと改修されたのです。その年の夏の甲子園大会も球場は超満員となり、新設のスタンドは白いシャツを着た観客で埋め尽くされていました。朝日新聞記者として取材していた人気漫画家の岡本一平は、その光景を「ソノスタンドハマタ素敵ニ高ク見エル、アルプススタンドダ、上ノ方ニハ万年雪ガアリサウダ」と表現し、8月14日の朝日新聞に掲載しました。これ以来、内野席と外野席の間の大観客席は、「アルプススタンド」と呼ばれるようになったのです。
●大リーガーでよく唾を吐いてるけどなぜ?
 
カロリーが多く、ビタミンEやミネラルが豊富で、かつ糖分やコレステロールがない。なるほど、ヒマワリの種はアスリートにとっては理想的な補助食品といえる。だが、カブスのクラブハウススタッフで、いつもヒマワリの種を業者から取り寄せているゲーリー・スタークスさんによると「健康のためと思ってヒマワリの種を食べているメジャーリーガーはほとんどいないよ」と一笑する。「(選手たちは)ヒマワリの種が健康にいいとか、好きというより、試合で退屈しないようになんとなく食べているんだよ。なかには種を食べないで、ダッグアウトからフィールドに立っているベースコーチに当てることができるかを競争している人もいるくらいさ」さらに、「一昔前まで、メジャーリーグでは噛みタバコをほお張ってプレーする選手が多かったんだ。でも、リーグが15年ほど前に健康や子供への影響を考えてマイナーリーグでその使用を禁じるようになってから、代わりにヒマワリの種を口にいっぱい詰めてプレーする選手が爆発的に増えたよ」と言う。
 ベースボールは“儀式”(ritual)と“ジェスチャー”(gesture)と“気取り屋”(posture)のスポーツである。
 「選手がヒマワリの種を食べて、吐き出している姿もベースボールの一部なんだ。お気に入りの選手がヒマワリの種を吐き出す姿をテレビで見た子どもたちは、自分たちもそうするようになる。野球は“国民の娯楽”といわれるが、ヒマワリの種は“国民のスナック(お菓子)”みたいなものなんだよ」どうやら、ベースボールは「格好から入る」ことも重要な要素のようだ。
●野球場の方角
 日本の球場は、同じ方向を向いて建てられている。
 それは、ルールブックに「本塁から投手板を経て二塁に向かう線は東北東に向かっている事を理想とする」とあるため。
●日本野球初期のルール
 明治の初期、米国人教師H・ウィルソンらによって伝えられた野球は、当初はストライクゾーンが上・中・下に分けてあり、バッターの、「じゃあ、今日は上で!」 という申告によって、その三つの中からストライクゾーンが一つ決められていた。
因みに当時はフォアボールではなく9個のボールで塁にでるナインボールでした。ストライクも三つではなく四つでアウト。
●プロ野球の審判
 プロ野球で、なんらかの理由で審判が試合に間に合わなかった場合、「試合協定事項」にのっとって、その試合をすることになる両チームの選手・コーチから審判を出して試合をする事になる。