(人物)
(1)小学校では落第生だった発明王
エジソンといえば、電灯、発電機、電気機関車等々、発明の天才といわれているのだが、子供の頃から、そんな神童のヒラメキを見せていた訳ではない。
その逆に小学校では、教師の教える事がなかなか理解できず、全くの低能児扱いをされ、落第ばかりしていた。
しかし、彼の母親は、「私の子供はそんなに頭の悪い子ではありません」といいはった。教師は「しかし、私の言う事がほとんど理解できず、試験の答案も、この通り0点ばかりです。お母さんがそんなにおっしゃるのなら、ご自分で教育して下さい」と言って、小学校から追い出されてしまった。
そこで母親は、わが子に色々と本を読ませ、熱心に教育した。それが功を奏して、エジソンの天才は少しづつ開花していったのである。
人間の才能といっても、実は様々だ。その長所を引き出そうと情熱を注げば、思わぬ能力が開発されてくる事もあるのである。
(2)学歴無用を実践して財閥になった男
「学歴有用」が重要視されていた時代に、東大工学部を卒業し大企業へのコネもありながら、それを拒否して一介の職工からスタートし、大財閥の総帥となった人がいる。日産コンツェルンを築いた鮎川義介がその人。
彼は明治の末に東大を卒業。当時の東大出の工学士様といえば、その値打ちは今日とは比較にならない。しかも大叔父が明治の元勲、井上馨であ。コネとしては最高の就職コネである。そして実際のところ、「ワシが口を利いてやるから、三井に入れ」といってくれている。これまた、当時としては最高の就職口といってよい。
しかし鮎川は、「色々と三井の人を見てきましたが、使われてみたいと思う様な人がおりません」と、これを断った。そして自ら選んで、芝浦製作所に日給48銭の職工として勤めた。東大出の工学士という身分を隠してである。
この時から鮎川は独立自尊、自ら事業を興そうと考えていた訳だが、その為には、学問だけではなく、現場の事を知らなければ、という考えからそうした訳である。
その後、彼は日本の技術にあき足らず、アメリカ留学するが、ここでも、鋳物工場の工員として働き、実地に現場の仕事を覚え込んだ。こういう勇気のある人生の選択をできる人が、今日それ程いるだろうか?
(3)初めて英語を話した人は?
日本人で初めて英語を話したのは、ジョン万次郎ではないかと思われます。
土佐の漁師の子だった彼は、1841年、14歳の時に漁に出て遭難し、アメリカの捕鯨船に救助されて渡米。教育を受けて10年後に帰国しました。その時彼は、英語を覚えた代わりに、日本語を忘れていたといわれます。
その後、江戸幕府に登用され、ぺりー来航の際は通訳として活躍し、幕府の使節が咸臨丸で初めて渡米した時も同行しました。また万次郎は、初めてネクタイを締めた日本人としても知られています。
当時鎖国政策をとっていた幕府は、密航を防ぐため、構造的に弱い船しか建造を許しませんでした。その為、万次郎のような漂流民は後を絶たなかったようです。
その頃の『異国漂流奇譚集』という書物は、漂流民達が覚えて来た英単語を紹介しています。“男をマイと申し候、女をモメ、男子をボヲヤ、女子をゲロ…”この書は聞き書きなので、彼らの発音が実際この通りだったのか、聞く方が聞き取れなかったのか、今ではわかりません。
(4)日本で一番肩書きの多い人
財界のトップともなると、教えきれないほどの肩書きを持っています。1990年代の経団連名誉会長の土光敏夫氏は、行革審議会会長など、ざっと150。同年代の日本商工会議所会頭の五島昇・東急電鉄社長は、小田急・京王・東武といった私鉄や、日本航空、歌舞伎座などの取締役もかね、役員を務める会社だけで20以上。肩書きの総数では200を超えます。しかしもっとすごいのは、以前の会頭だった永野重夫氏。約千の肩書きを持っていました。
財界人の数多い肩書きの中には、ボーイスカウト日本連盟総裁(前出・土光氏)、発明協会会長(いずれも、井深大・ソニー名誉会長)といった、本職とは関係なさそうな肩書きもあります。