(ギャンブル)
(1)“オイチョカブ”とは?
 「オイチョカブ」とは、トランプか花札の1から10までの各四枚(花札の場合は、1月から10月までをそれぞれ1から10とする。つまり、月と花の絵とが、数字でピンと来ないと、このゲームに参加する事が出来ない)計40枚を用い、2枚または3枚の数字の合計の1のケタが9ならば勝ち。9が無ければ、以下、8、7、…の順に勝ち(ほかに何種かの役はあるが)というゲームである。
 この「オイチョカブ」とは、「オイチョ」が「8」、「カブ」が「9」を表す符帳からきている。「オイチョカブ」をする場合、「1」を…「ピン」又は「チンケ」(インケツの変形)とよぶ。「2」を…「ニゾウ」 「3」を…「サンズン」「サンタ(三太)」 「4」を…「シス」「ヨツヤ(四谷)」「5」を…「ゴケ(後家)」 「6」を…「ロッポウ(六法)」 「7」を…「ナキ」「シチケン」 「8」を「オイチョ」 「9」を「カブ」 「10」を…「ブタ」「ブッツリ」と呼ぶ。こういう符帳を使う事から、ゲームの方も、気分が増して一段と白熱してくる事になる。2枚あるいは3枚で「9」になる場合、「2、7(仁吉)が通る水戸街道」(2と7をたしてカブ)「4、6、7(白く)咲いた百合の花」(4と6と9たしてカブ)「8、1(はっぴ)クルクル車屋のカブ」(8と1でカブ。これを車屋の着るハッピにシャレたつもり)「5、6、8(ごろはち)茶碗屋のカブ」(五郎八茶碗にかける)などと言ってゲームを盛り上げる場合がある。
(2)麻雀のルーツと歴史-1
 広東語に堪能で、中国事情に詳しい和久田幸助さんの著書『私の中国人ノート』に、麻雀の起源を調べた小文が載っていたので、かいつまんで紹介しましょう。和久田さんは、あれ程、千変万化の面白さに富んだ麻雀だから、さぞかし長い歴史が積み重なって形造られたのに相違ない、と考えた。そして、広東人の知人で、特に史実や故事に関心の深そうな友人をつかまえて、麻雀の歴史を探索する。そして、麻雀がこの世に生まれてえから100年とたっていない事に気づくのである。
 和久田氏の説は、明朝の末期に「馬吊(マーティュ)」という紙製のカード遊びが流行していた。その原形は、宋時代にさかのぼるがここではふれない。この馬吊は40枚のカードを4人に分けて戦っていたらしい。
 その馬吊が、清朝に入ってから、徐々に変化をし、108個の骨牌による「馬将牌)マーチャン)」となった。108個の牌は、「水滸伝」の中に出てくる。梁山泊にたてこもった108人の好漢を当てはめたもので、この遊戯は、清朝末期まで、「馬将」と略称されて、人々に親しまれた。この馬将が、やがて麻雀に変わるのだが、最終的には寧波に住んでいた陳魚門という人が、白、発、中、東、南、西、北の7種を加えて、現在の136個の麻雀牌を完成させ、その後100年ほどしかたっていない。
(3)麻雀のルーツと歴史-2
 麻雀の歴史はかなり古く、ルーツは色々な説があります。麻雀の起源は中国だというのは確かですが、いつ頃、誰が発明したかというのは不明で、定説はありません。
 禹帝(中国先史時代)の頃から宮廷で行われていた「バーリン」という、紙製で40枚のパイを用いる遊びが、一応、源とされています。ただし、これも通説にすぎませんし、その後どんな経過で現在の麻雀になったかも明らかではありません。何度か改善されて、現在のものに似た形態の麻雀が出現したのは、どうやら清朝初期のようです。その頃、宮中に多数の学者を集めて作らせたという説がある一方、光緒年間(1875〜1908)に浙江省の陳魚門という人物が考案創作したという説もあります。
 当時は宮廷内での一部の人の遊びで、一般の人々にまで広まったのは太平天国の乱(1851〜64)の時とも、義和団の乱(1899〜1901)の時以降ともいわれています。
 日本には、中国本土からとアメリカ経由の二路から前後して明治末期に入ったようです。広く一般に伝えられたのは、アメリカ経路の方らしく、七対子チートイツのようなアメリカ・ルールが採用されているのもその証拠でしょう。いずれにしろ、麻雀が今日のように一般的な遊びとしてわが国に定着したのは、菊池寛が初代総裁に就任した昭和4年の日本麻雀連盟の結成をきっかけに、さらに戦後の事です。
(4)賭博・娯楽の王様だった花札
 その名のとおり花鳥風月を美しく意匠した花札は、文政・天保年間(1818〜44)に登場したもの。
原型になったのは、明和から天明(1764〜88)に最もはやった48枚1組の、「天正かるた」。1組の枚数は花札と同じですが、花札12種4枚に対して天正かるたは4種12枚でした。「ピンからキリまで」という言葉は、この天正かるたの1をピン、12をキリといった事から。
 その「天正かるた」は、75枚1組の「うんすんかるた」から発展しました。ポルトガル語でうん(un)は1、すん(sun)は最高の意味で、「うんともすんともいわない」とはこれに由来するといわれるように、「うんすんかるた」は元亀・天正(1570〜92)の初め頃「西洋かるた」として渡来しました。つまり「西洋かるた」が「うんすんかるた」になり、それが「天正かるた」を生んで、さらに日本独特の「花かるた」とも称される花札になったわけです。
 花札は誕生を見るや賭博性とも相まって大流行し、天保年間には販売が禁止されたことがあるくらい。明治になってトランプが海外からもたされるまで、大衆娯楽の王様でした。
(5)サイコロは古代からの縁起もの
 サイコロがいつどこで発明されたかは定かでありません。紀元前3200年以降にはすでにエジプトに存在していて、それがメソポタミア、地中海方面、ギリシアやローマへと伝わりました。このサイコロの目は現代のものと同じ。
 また、紀元前3000〜2500年のインダス文化にもサイコロがありましたが、一の裏は二、三の裏は四という様に配置が違っていました。
 中国でも隋唐時代(6〜10世紀)には存在していたのは確かですが、それ以前にもあったと推測されています。中国のサイコロも、エジプトに存在したのと同様、両面の和が七になっている事から、ローマ文化の伝播の結果と言われています。
 日本にサイコロが双六すごろくと共に中国から伝来したのもこの頃で、その後、賭博の道具としても流行し、現在に及びました。この様にサイコロは、世界中で最も原始的なギャンブルだったわけですが、ギャンブルのほとんどが占いの一法として始まった様に、サイコロそのものは神意を問う占いでした。はかりがたい神の意志を、転がしたサイの出目で占った訳です。
 日本でも古くからサイコロは「魔除け」の縁起物とされてきましたが、それも、神社や寺で占いとして使われたからでしょう。
 また、どの両面の和も七になるところから、サイコロが神聖視されたのかも知れません。七という数字は昔から縁起のいい数字とされています。日本では吉数と言い七福神や七賢人が尊ばれますし、外国でも古代イスラムの時代から七は聖数とされてきました。
(6)パチンコが生まれたのはどこ?
 パチンコはそもそも日本で生まれたものかというと、そうではありません。パチンコの祖国はアメリカです。やや傾斜した台に沢山のピンが打ち付けられていて、通路からはじいた玉を得点穴に入れる、あのコリント・ゲームがパチンコに発展したのです。今でも子供の玩具としてみられるコリント・ゲームは、1910年にデトロイトのカイル商会が登録した遊技台で、一般的には「ピンボール・ゲーム・マシン」とよばれて、打ちつけられているピンがギリシアのコリント式円柱のように見えるところから、コリント・ゲームとも言われ流行しました。
 このコリント・ゲーム台を隊商年に大阪の貿易商が輸入して改良したのが、パチンコの始まりです。もっとも、当時は今のような鋼球を使う機械ではなく、「ガチャンコ」とよばれ、1銭銅貨がうまく穴に入ると景品が出るというもの。「パチンコ」の名がついたのは、もう少し後の事。現在のような玉が使用され、どの穴に入っても同じ数の玉がでる「オールもの」が考案されたのは戦後になってからで、多少のギャンブル性も備えて飛躍的にブームになりました。「ひらけひらけ」のチューリップが登場したのは昭和39年です。
(7)パチンコ必勝法
 1台の盤面には、大体350〜360本のクギが打たれています。あのクギさえなければ玉が入るのに、と考えるのは間違い。クギは玉をはじいて穴に入る確立を高めるのです。1本のクギがあるかないかで、1日の賞球が数千個も違うといわれるくらい。つまりパチンコ台は、クギ数が多いほうが偶然性も高まり、それだけ穴に入る確立も高くなるわけです。
 ところで、パチンコ屋のパチンコ台には、クギが調整してあり、いくらやっても絶対といえるほど稼げない、回収大が割くらいあります。それから、玉の出は良くも悪くもなく、長くやっていると結局は損をする遊び台が割り程度。プロ級の人なら取れるという台が2〜3割。誰がやっても大抵は出せる、サービス台とか看板台または開放台といわれるのは2〜3割しかありません。これは常識的な割合ですが、知っておいて損はないでしょう。要は、出る台をうまく見つけて、ある程度玉が出たらそれでやめる、というのが一番のパチンコ必勝法です。
(8)パチンコは日本だけ?
 パチンコは、気楽なギャンブルとして、日本のレジャーの花形です。外国ではどうか?今までには機械、玉ともアメリカ、カナダのほか、インドネシア、タイ、マレーシア、グアム、台湾などの東南アジアや、東欧といった国々に輸出されたことがあります。しかし、中古品の販売業者あたりがわずかに輸出を手がけたくらいで、とても日本の輸出産業とはいえません。また、パチンコを入れたどの国でも、家庭の玩具であったり、遊園地や小さな酒場に1、2台置いてある程度で、町中でチンジャラジャラといった風景は見られません。なぜ外国では受け入れられないのでしょうか?まず国民性の違いがあります。あの小さい玉を時間をかけても数多く出す、といった情熱の問題。それから、一部の公認賭博を除いて、世界のほとんどの国が賭け事を禁止していることがあげられます。
 パチンコが単なる遊戯品として迎えられるわけはありません。
 それでは、賭博を一部公認している国や地域への輸出はどうでしょうか。例えば、ラスベガスやモナコといったところ。周知のように、こうしたところにはすでにスロット・マシーンのようなギャンブル・マシーンが沢山あるので、パチンコが入り込む余地はないのです。
 日本のパチンコメーカーが輸出に乗り出さないのは、以上のような理由があるかれです。外国や日本の貿易商社からの問い合わせもメーカーにかなりあるらしいのですが、輸出に伴う経費、採算やリスクまで考慮に入れると、現状では商売として成功させるのは不可能に近いというわけです。どうやらパチンコは、日本特有のささやかなギャンブルのようです。
(9)ギャンブラーの縁起担ぎあれこれ
 誰でも縁起を担いだり気にしたりはするもの。そんな事はないという人でも、日常生活で縁起に関わっている事がずいぶん多いのです。正月やお盆がそうですし、第一、冠婚葬祭の習俗に従わない人はあまりないでしょう。とりわけ、賭け事となると、縁起を担いだりジンクスに従ったりしたくなるものです。
 競馬や競輪の買い目を、電車の切符や車のナンバーや生年月日や年齢で決めたり、新聞の占い欄を読んだり、暦によったり、という具合。また、勝った日の道を必ず通るという人や、神社のお札を財布に入れて行くという人もいるでしょう。要は、あてにならぬと分かっていても、はかりがたい結果を有利に導きたい、勝ちたい一心からなのでしょうが、ギャンブラー達は昔から縁起やタブーやジンクスを実に大事にします。次はその一例です。
◎葬式に会うと勝つ、または負ける
 普通は、葬式は死であるから縁起が悪い、従って勝負事にも負けると考えられます。これとは逆に、他人の死に会う事で災厄を体験した(負けた)ので、それが厄落としになり、次は勝ち運に恵まれるという考え方。現代では「霊柩車に出会うと勝てる」または「負ける」などといいます。
◎女性の陰毛は賭け事の守り神
 女性の陰毛を懐紙に包んで持っていると不思議と勝ち運に恵まれるというもの。男にはない女性の神秘的な生殖能力から、摩訶不思議な女性の力を借りて勝ち運をつかもうという事でしょう。
◎鼠ねずみ小僧の墓石は勝運を呼ぶ
 東京・両国の回向院にある鼠小僧次郎吉の墓石が、昔から少しずつ砕かれて持ち去られるといいます。ギャンブラーが(墓石を収集するマニアもいるかもしれない)、この義賊の強運にあやかって、墓石のかけらを持つ事で勝運を得たいというのでしょう。同じように、群馬県にある国定忠治の墓なども被害にあっています。とかく義賊や博徒は、ギャンブラーの英雄や守り神になるらしい。
◎サイコロを持っていると良い
 一般にサイコロは魔よけになるものと、長い間信じられてきました。今でもキー・ホルダーにサイコロをつけたりしますし、大師の縁日には、竹の棒に小判や千両箱と一緒にサイコロつきのものを売っています。
◎鉄砲の弾を持っていると「当たる」
弾丸は「当たる」ものだから、というだけの事。巷のギャンブラーにも、弾丸のネックレスやキー・ホルダーを持っていつ人がいます。
◎四つ足を食べると負ける
そもそもは力士の縁起で、四つ足の動物は両手両足を地面につけているから、相撲では負け」になる、という事。今そんな力士はいませんが、ギャンブラーには馬肉を食べないという人が意外に多いようです。賭けている競走馬を見れば、同じ馬の肉を口にするのはすまないという気になるのかもしれません。
◎カツレツを食べる事
単なる語呂合わせ。競走馬や競輪場などで売っている「あたりめ」、「あたり豆」、「からみ餅」、「かち氷」など皆同様。
(10)なぜパチンコの本場は名古屋?
 なぜ名古屋はパチンコの本場なのか?まず、第1に、パチンコメーカーが名古屋市とその周辺に集中している事。全国の65%のメーカーが集っている。
 第2が、パチンコ台の材料が名古屋地方や三河地方で主に生産さていた事。台の材料であるベニヤ板は名古屋地方が主生産地。また板金加工の職人さんも多く、パチンコ台にはめるガラスの生産工場も、三河地方には沢山あった。
 こうした理由に加え、パチンコの発明者である正村竹一という人が、名古屋の生まれであった事も、パチンコが名古屋で発達した理由の一つといって良いでしょう。
 パチンコと名古屋の結びつきは偶然ではない。
(11)日本初のギャンブルは?
 日本で最初に賭け事の様子を描いたのは『古事記』。イズシオトメに求婚して断られた神が、兄の神に「もし兄さんがイズシオトメと結婚できたら私は服を脱いで、自分の身長と同じ高さの酒と山河の産物をあげる」と云ったのです。しかし、一般的には685年、天武天皇が王卿達を呼んで行った『博戯』がギャンブルの最初の証拠。中国から伝来した双六(すごろく)をして、勝者には衣類や獣皮が与えられたといわれています。
 当時の双六は現在の絵双六と違い、二つのサイコロを筒から振り出して、白黒15個づつの駒を動かすゲームでした。この双六。宮中の貴族達に大流行し、689年には双六禁止令が出されたほどです。689年の日本律令では物を賭けなくても双六をすると罪になるとしています。
 また“賭けをしている”と報告した者はそこで賭けられている物品を与えられたそうです。それ以後も何度も禁令は出されましたが、それは賭けがなくならない証拠です。
王卿(おうけい)王と公家のこと 博戯(はくぎ)ばくち