(食べ物:food)
(1)赤い梅干しは江戸時代から
梅干しは、数百年も前から日本人に親しまれ、現在も愛用されている古くて新しい健康食品です。昔の武士は合戦の際に携帯し、息切れがするとジッと梅干しを見たといい、室町時代の書物には、酒や飯の時、むせないように時々梅干しを見た、とあります。
昔の梅干しは見るだけで薬効十分だったのです。江戸時代になって、シソの葉を入れて梅干しを漬けるようになり、また保存食として一般家庭にも普及しました。
シソの葉を入れたのは着色の為で、赤い梅干しの方が視覚的にも食欲をそそります。梅干しの効用は数多く、病原菌の殺し屋としては抜群の力を発揮し、赤痢菌、コレラ菌、大腸菌、結核菌、ビブリオ菌(食中毒の原因になる)などが梅の実の絶大な殺菌力に負けてしまいます。
梅干しは基本的には約25%の塩分で梅を塩漬けにした後、土用干しをして本漬けとなります。本質的に梅干しは乾燥することはあっても腐りませんが、減塩梅干しは日持ちが悪いようです。
(2)国産缶詰の第1号
一人暮らしには欠かせない缶詰。誰が発明したのでしょう?日本缶詰協会の話では「カンヅメの原理を発明したのは、ニコラ・アペール(仏)という人。ナポレオンが軍用食料の保存方法を懸賞募集したところ,1804年、パリの菓子職人アペールが当選」。タダシ、カンヅメとはいえ、口の広いビンに調理した食品を詰め、中の空気を抜いて、コルクで栓をするだけのものでした。今の様な缶は1810年、ペーター・デュランド(英)の発明品。
ところで、日本で最初にカンヅメが作られたのは明治4年(1871)。長崎の松田雅典が、レオン・デュリー(仏)から製法を教えられ、イワシの油漬けで試作したのがはじまりといわれていますが、残念ながらお味の方は不明。
軍用食料として発明された缶詰は、その後も戦争のある度に生産量が増え続け、今や、日本で年間200万缶以上も生産されています。
(3)スイカは野菜か果物か
果物の語源は、「木になるもの」です。スイカはウリ科の一年草ですから、厳密にいえば果物ではありません。でも、草になるものは果物ではないとしてしまいますと、イチゴやメロンも野菜という事になってしまいます。
スイカを野菜とみるか果物とみるかは、国によって違うようです。英語の「フルーツ」は日本の「果物」と全く同じで木になるものという意味です。ヨーロッパではこれより広い範囲を認めていて、スイカばかりかトマトまで果物の仲間入りをしています。
さて、このスイカ。日本に入ってきたばかりの頃は、みんな気持ち悪がって食べませんでした。スイカの渡来は、江戸時代の初めの頃と言いわれていますが、江戸に現れたのは、ちょうど由井正雪の乱があった翌年でした。人々は始め、スイカの果実が血のように赤い、スイカを切る音は人の首をはねる音に似ているといっていやがり、道で切り売りをしても、下層階級の人しか買わなかったといいます。
(4)「醍醐味」ってどんな味
ほとんどの日本人がバターやチーズを食べるようになったのは戦後の事ですが、奈良時代や平安時代の貴族も牛乳を飲んだり、乳製品を食べたりしていました。
乳牛が日本に初めて入ってきたのは飛鳥時代の事といわれますが、奈良時代になると、牛牧と呼ばれる官有牧場も各地に作られ、乳牛の飼育が盛んに行われていたのです。
その頃作られていたのは酪らく・酥そ・醍醐だいごといったものです。酪とは、牛乳を煮詰めた練乳、コンデンスミルクのようなもので、酥はこれを更に固めて固形にしたもの、つまりバター、そして醍醐はバターとヨーグルトの中間のようなもの、という事が出来るでしょう。
そもそも仏教で醍醐といえば、仏の最高の教えをたとえる言葉です。昔は乳製品には乳味、酪味、生酥味、熟酥味、醍醐味の五味があるといわれ、醍醐味は五味の中で最高の味という意味でした。
修行中に倒れた釈迦を一口のヨーグルトが救ったという伝説に基づいているという説もあります。醍醐味というと、今では「何事にもかえられない楽しさ、本当のおもしろさ」の事ですが、昔はバターやヨーグルトのような味をさしていたのです。
しかしこの習慣は、その後長く続きませでした。日本の風土に牧畜が馴染まなかった上に、貴族社会の崩壊によって各地の牛牧が荒らされてしまったからです。何度か出された肉食禁止令も影響しました。
乳牛が再び歴史の舞台に登場するのは江戸時代です。八代将軍吉宗は白牛を輸入し、安房嶺岡に牧場を開きました。これが家斉の時代には60頭にも増え、薬用として白牛酪を作っていました。当時牛乳は非常に高価なものでしたが、水戸光圀公は牛乳の大ファンであったといわれています
(5)生ガキを夏は食べないわけ
イギリスでは、Rのつかない月[つまり5月から8月]にはカキを食べるな、といわれています。カキは雌雄同体といって、ひとつの個体が雄になったり雌になったりする動物ですが、夏のはじめに子供を産むため、冬になると栄養を貯えはじめます。3月ごろには丸々と太り、卵や精子も発達して体重の3分の2を占めるようになるため、この頃のカキは味がいいのです。これに対して、生殖を終えた夏のカキは栄養分がないためまずく、暑さで鮮度も落ちるので、夏は食べない方がよいといわれてきたのです。
この時期になると、卵巣に有毒な物質が出来るともいわれますが、はっきりした事はまだ分かっていません。
(6)玉ネギに泣かされない方法
玉ネギは、アルカリ性でビタミンB1、B2、Cなどを豊富に含み、和風、洋風、中華風とどんな料理に使える上、貯蔵がきくので主婦には重宝されています。しかし、主婦泣かせでもあります。玉ネギの、泣きたくもないのに泣けてくるあの刺激臭は、硫化アリルという揮発性の化合物が原因です。この硫化アリルは玉ネギのうまみや香りのもとであり、体内のビタミンB1の働きを活発にしてくれます。
涙を出さないで玉ネギを刻む方法は、まず、硫化アリルが集中している根の部分を切り捨てます。また、硫化アリルは水に溶けやすいので、水の中で皮をむき、水にしばらくつけておいてから切ると、涙腺への刺激がなくなります。そして、よく切れる包丁を使うこと。切れない包丁を使うと、本来つぶさなくてもいい細胞までつぶしてしまい、その分、刺激も強くなります。この他、玉ネギを冷蔵庫の中で貯蔵しておくのも効果的です。
(7)ホワイトチョコレートはなぜ白い?
チョコレートの原料はカカオマス、ココアバター、乳製品、 砂糖などです。カカオマスはカカオ豆をあぶり焼いて皮と 胚芽を除いたものをすりつぶしてペースト状にしたもので す。ココアバターは、カカオ豆に含まれている脂肪の事で す。いわゆるチョコレート色は、苦味の強いカカオマスを使 っているから出るのです。ホワイトチョコレートはこのカカオ マスをそのまま使わず、カカオマスの中に約半分含まれ ている乳白色をしたココアバターだけを取り出し使ってい るから白いのです。
ホワイトチョコレートの特徴はカカオマスが入っていないの で、苦味がなくミルクの味が生かされるところにあります。
チョコレートには、「チョコレート類の表示に関する公正競 争規約」という決まりがあります。その中でカカオの含有 量によって、チョコレートを分類します。 カカオはなくても、一定の含有量であればチョコレートの規 格に合うのです。
(8)バターとマーガリン健康によいのは?
バターは牛乳の脂肪を集めて固めた食品です。牛乳からクリームを分離し、これを激しくかき回して練り上げたものです。バターの成分は、乳脂肪80%以上、水分17%以下と決められています。100g当たりの熱量は715キロカロリー、ビタミンA、食塩なども含まれています。そして、コレステロールが約0.3%含まれています。一方のマーガリンは、植物油脂(大豆など)や動物油脂(牛・豚油など)が原料の「人造バター」です。原料に発酵乳、乳化剤、食塩、香料などを加えて練り上げて作ります。
現在出回っている家庭用マーガリンのほとんどは、植物油脂を原料にしています。
植物油脂は、動脈硬化の原因になるコレステロールを含みません。ビタミンAも含まない為、多くのマーガリンはビタミンAを強化しています。農林水産省の調査では、最近過程でのバターの消費が減って、マーガリンが増え
ているのです。
その原因の一つは、バターよりマーガリンの方が好ましいとされているからです。運動量の少ない人は、バターの摂りすぎに注意しなくてはなりません。
(9)幕の内弁当のはじまりは?
お弁当の中で、最もポピュラーな幕の内弁当。その起源は古く、一説には平安時代の屯食とんじき(強飯ごわめし卵型に握ったモノ)から発したともいわれています。お弁当として“幕の内”が世間に広まったのは、江戸時代。赤堀栄養専門学校・赤堀永子先生によると、芝居の役者や関係者が食べていたものを、ひいきの客がマネする様になり、一般的になりました。
芝居見物の人が、幕と幕の間に食べるという事で幕の内弁当と呼ばれる様になりました。そのお弁当の中身は俵型に握ったご飯と、卵焼き、焼き魚、煮物などのおかず。幕の内弁当の特徴は、ご飯が“俵型のおにぎり”と決まっている事。役者や芝居見物の人達が、ちょっとした間につまんで食べられる様になっていたのです。
また、一度に10個の俵型のおにぎ
りを作る木型も、ちゃんとあったといいます。ただ、おかずがバラエティ豊という事だけではなかったのです。
また、幕の内弁当という名前の由来には、江戸時代に“万久”という店が最初に作ったからという説と、小さなおむすびを相撲の小結=幕の内、とひっかけたという説もあります。
(10)日本一高級な料理は?
日本で食べられる料理で、金額からみて一番高級なのは懐石料理です。高級な店なら、1人前10万円くらいかかります。前菜から始まって、お椀、焼き物、蒸し物とと続き、料理の数は全部で17〜18。日本料理には器や雰囲気を楽しむという伝統もあり、500万〜1千万円もする食器を使い、国宝や重要文化財級の絵を随所に掛けている店もあります。料金にはこれらの鑑賞代も含むわけです。
また、素材の少ないものや珍味も高級です。松坂牛でも最高の肉は、卸値で100g3千円以上もします。これをステーキにすれば、3万円以上。
神戸の中国料理店が、“満漢全席”というフルコースの宴会を催したことがありますが、料理が160皿あったといいます。ハイライトは象の鼻、熊の手の平、鹿の角の骨髄、フナのほほ肉の料理でした。参加費は15万円で、入浴や仮眠の時間を挟み、宴は延々3昼夜に及んだそうです。
(11)ラーメンの伝来はいつ?
ラーメンは今や日本人の食生活には欠かすことはできません。ではいつ日本に伝わったのでしょうか?
食物史家の平野雅章先生によると、ラーメンの誕生は比較的新しく、明治時代中期。横浜が貿易港として栄えるようになり、日本にやってきた中国人の間で作られたのがラーメンの始まりとされています。本場の中国には切麺チェーミェンという似たようなそば料理はあっても、そっくり同じものではありません。
初期の頃は、屋台売りが中心でしたが、やがて店を構えるようになり、店の“のれん”には支那しなそば、あるいは“わんたん”と描かれていました。その後、支那そばや中華そばなどと呼ばれ、ラーメンのなが一般的になったのは、昭和30年代のことです。
ラーメンの語源は、拉麺ラーミェン、柳麺リューミェン、打麺ターミェンなどの中国語が転訛てんかしたという説が有力です。
(12)インスタント味噌汁の起源
江戸時代は今と比べて天候が不安だったこともあり、60回以上の飢饉がありました。享保、天明、天保のものは特にひどく、三大飢饉といわれるほどです。飢饉になると、各藩が穀類を少しでも自分のところに置こうとしたり、買占めが行われたりしたので、食料品の流通が滞り、いくらお金を出しても食べ物が手に入らない状態になることが多かったのです。
この為、人々は仕方なく米ヌカ、松の皮、ワラ、そばがら、豆がらなどで団子や餅を作り、ご飯の代わりにしました。ワラで作る餅はそのものズバリワラ餅といわれ、ワラを水に入れてアクを抜き、細かく刻んで粉にしたものに米粉を加えて餅にするというのですから、どんなに上手に作ってもまずそうです。もちろんユリの根、トチの実、ワラビの根など木の実や草の根も食べました。アザミ、キキョウ、タンポポ、ホウセンカ、スミレなどの花も食用にしたのです。
幕府や各藩は、救済事業の一環として、どんなものが食料になるか一覧表を作り、その食べ方を教えました。それを見ると、こうした雑食をする場合には必ず塩を一緒に摂るように勧めています。その理由は、木の実や雑草にはカリウムが多く含まれていて、カリウムが体内にたまると病気に対する抵抗力が弱まるからです。しかし、この塩さえ手に入らず、死んでいく人もありました。
飢饉がたびたび起こるので、保存食も考え出されました。例えばみそ芋がらですが、これは干した里芋の茎をみそで煮込み、再び乾燥させたものです。これを刻んで熱湯に入れると、たちまち味噌汁になるというのですから、インスタント味噌汁の元祖というわけです。
この他、納豆に塩をまぶして寒い夜に干しあげる干し納豆、昆布を粉にしためのこというものなども作られました。どれもユニークは発想に基づいているというので、ドイツ軍が注目し、利用したそうです。
(13)オードブルはロシアの習慣
オードブルはフランス語で、「作品の外」「建物の突き出た部分」という意味だそうです。メニュー以外の食べ物という事でしょう。このオードブルは、ロシアのザクースカという習慣がフランスで広まったものという説があります。
ロシアは広い国です。パーティーを開いても客ははるばる遠くから馬車で野を越えてやって来る為、到着の時間がばらばらになります。全員がそろわないと食事は始められないので、早く来て待っている客を別室に集め、酒やつまみを出しました。この酒やつまみをザクースカといったのです。
フランスでは11世紀にすでに、オードブルという言葉が使われていました。しかし当時は定まった食事のコースなどなく、すべての料理がテーブルの空いた部分をうめる為の補助的な料理とされ、当時は鳥の丸焼きなども出されたようです。
しかし、その後ザクースカの影響を受けたのか、まとまった1つの料理となり、その形も一口で食べられるぐらいに小さくなって、スープの前に前菜として出されるようになったのです。
このオードブルですが、コックの腕の見せどころといわれています。最初に出されるものですから、腹にたまらず、次に出される食事はさぞかし、と期待をもたせるようなものである事が要求される為です。
(14)精白米はいつから食べたか?
わが国に米が伝えられたのは、縄文式文化時代の終わりから弥生式文化の初めにかけてといわれています。中国から北九州へ入ってきたのです。
室町時代までは、米は国民の主食ではなく、一般庶民はアワやヒエを食べていました。貴族達もアワを混ぜた玄米などを食べていたのです。
白くついた精米を食べるようになったのは、江戸時代明暦年間(1655〜57)の頃からです。しかし、それも将軍家や大名、裕福な商人達だけに限られていました。武士でさえも、その多くは米七分、麦三分の麦飯を食べていたのです。米の配合比が多いほど生活程度が高いとみられていました。
日本人のほとんどが麦の混ざっていない真っ白なご飯を食べるようになったのは、戦後10年近くたってからの事です。今では、国民1人当たり1年間に約79`の米を食べていますが、毎年減少傾向にあります。
ビタミンB1、B2、E、ミネラルなどの多い胚芽精米が広く売られるようになったのは、昭和52年で、この米は徐々に消費量が増えています。
(15)ビンはどれくらい保存できるか
食品衛生法では、ビン詰食品を次のように定義しています。「内容食品の腐敗・酸化を防止し、相当期間保存する事を目的とし、ガラス、陶磁器製の容器に入れられ容易に復元できない方法で密栓、密封された食品をいう」。
フタの種類によっておよそ3つに分けられます。コップ製のビンと、内側にゴムをはめたブリキ製のフタからなり、ふたのふちをビンの側面に押し付けて閉めたアンカー型。フタをバンドで固定させるハネックス型。フタの内面にゴムパッキングをつけ、ねじで締めるネジブタ式。このうち、ネジブタ式は、食品衛生法上はビン詰めではなく「ビン入り食品」になります。再びネジを締めれば簡単に復元できるからです。
さて、未開封のビン詰めは、内容物の煮込みがしっかりしたものなら5、6年とされます。浅炊きの惣菜風のものは約3年です。食品が加熱殺菌処理されていれば、缶詰と同じくらいの保存が出来ます。
 ただし、光や振動のない場所で保存する事が大事です。
(16)駅弁はいつできたか
わが国の鉄道に駅弁第1号が登場したのは、1885年(M18)7月16日、今の東北本線宇都宮駅です。当時の日本鉄道株式会社は、旧宿場の旅篭、茶店などに委託して駅弁を売り出しました。ゴマ塩をふりかけた梅干し入りのにぎり飯2個にたくあんをつけ、竹の皮で包んだだけ。値段は5銭、今のお金で700円近くですから粗末な割りに高かったようです。
駅弁らしい駅弁の初めての登場は、1888年(M21)の事。今の山陽本線姫路駅です。これはいわゆる幕の内弁当の「三種の神器」卵焼き、かまぼこ、魚料理が入り、白米の飯にきんとん、新香などをつけた特上物でした。容器もそれまでの竹の皮包みから経木の折り箱に代わっています。
今では、普通弁当約460種類、約特殊弁当1660種類もあり、幕の内弁当の標準価格は800円。特殊弁当は2000円前後のものもあります。新幹線の発達やJR離れで、昭和50年頃から駅弁の売上げは減る一方です。
(17)昔のチョコの味は?
 明治初期、東京の風月堂がチョコレートの製造を始めた頃は「貯古齢糖」と当て字を使っていました。森永製菓の話では「初めてチョコレートを食べた日本人は、岩倉具視遣欧使節の一行。明治6年、フランスのチョコレート工場を見学した際に口にし、“極上品の菓子”“人の血液に滋養を与え、精神を補う効あり”と絶賛しています」。もっとも、。薬用の飲み物としてのチョコレートは江戸時代の初期に、アメリカへ派遣された使節団の一人、支倉六右衛門常長という人が最初に飲んだ、という説もあります。
 大正7年に森永製菓がカカオ豆から一貫製造を始める頃になると、庶民にも人気に。女工員の賃金が1日20銭だった時代に、1個15銭の居板チョコがよく売れたそうです。
 ところが、第2次大戦中、原料のカカオ豆が輸入禁止になり、チョコレートは製造不可能に。しかし“いもチョコ”“豆チョコ”“グルチョコ”といった代用品が登場し、密かに売られていたとか。これらはジャガイモや小豆、ユリ根などを焼いてココアパウダーに似たものを作り、大豆油、ヤシ油などの油脂を加え、バニラで風味をつけたというシロモノ。戦後もしばらく製造されていたといいますから、需要があったのは確か。一体、どんな味だったんでしょうね。
(18)中国料理のいろんな材料
 中国には「医食同源」という言葉があります。「食べ物は命である。食事を間違えると病気になり、病気になっても正しい食事をすれば治る」という意味です。こんな言葉をもつ民族にふさわしく、中国人の食べ物に対する熱意はたいへんなものです。
 中華鍋と鉄ベラさえあれば出来るという中国料理ですが、とにかくた食べ物として考えられるものはすべて食べます。しかも、あらゆる部分を捨てずに利用するので、「中国料理は料理の天才」などといわれてきました。
 厳しい自然環境、生活環境が生み出した生活の知恵であるという説もありますが、料理材料を見ると、こんなものがと驚くような代物も少なくありません。例えば、ツバメの巣のスープです。これはアナツバメがだ液で固めて作った巣を長い時間をかけて煮込んだものです。アナツバメは南海の孤島や絶壁に住んでいるので、この巣を取るのは命がけなのだそうです。この為、非常に高価で、フカヒレスープと共に第一級の中国料理の代名詞となっています。
 熊の手のひらと魚の舌を煮込んだ料理もあります。熊は手、つまり前足でアリをつぶして食べる為、アリの甘さが手のひらにしみこんでいるといわれています。ですから後ろ足は食べません。前足も右は不浄だといって、左足しか使わないというのですから、この料理には何頭も熊が必要でしょう。
 広東にはマムシ、コブラ、ハブの三毒蛇の寄せ鍋料理もあるそうです。ムカデ、モグラ、ネズミも食べ、ますし、鳥獣は内臓はもちろん、舌、喉、鼻、ひずめ、よだれ、こう丸、にわとりのトサカと、それはもう骨までしゃぶり尽くすのです。