あいらぶ堺 ものの始まりなんでも堺(etc)

堺には日本で最初というものが色々あります。それが、今日の堺を育んできた文化であり、
堺の人々の誇りでもあります。

[国道第一号]
竹の内街道は古代日本のシルクロード?
推古帝の21年(613)に堺港から藤井寺、古市、磯長を抜けて奈良の飛鳥につけられたわ
が国最古の官道が竹の内街道です。その昔、聖徳太子はじめ朝廷貴族や高僧が往来し、
大陸文化も、この道を通って日本に入った。現在は府道美原太子線、富田林高田線と名を
変えている。
[公園第一号]
年間150万人が訪れる浜寺は、日本で最初の公園
浜寺は、高師浜と呼ばれていた昔から、白砂青松の名景勝地として知られていました。と
ころが、明治になって禄を取り上げられた士族を救済するため、由緒ある松がどんどん切り
倒された時、たまたま浜寺を訪れていた大久保利通が、
   「音に聞く 高師の浜の 松ヶ枝も 世のあだ波は のがれざりけり」
と嘆いて、松の伐採は停止されました。そして明治6年12月に大政官布告により、我が国
で最初の公園となり、松の若木が沢山植えられました。
明治28年、南海鉄道が開通すると来園客が急増し、料亭や旅館、茶店、遊技場などの施
設も充実。39年には海水浴場も開かれ、ますます人気を博しました。続いて浜寺水泳練習
場や、大正13年にはテニスコートのでき、全国中等学校庭球大会が開かれるなど、1年を
通じて楽しめる公園として、長い間多くの人々に親しまれています。
[木造様式灯台]
「おかみがやらないなら自分たちで」町民パワーが灯した光
旧堺港の防潮提近くのペンキで塗られた木造の灯台。これが堺
港灯台です。明治9年、港の近代化をすすめるため、石工・継国
真吉、大工・大眉佐太郎らに請け負わせました。当時、政府や
県は余裕なしとして援助を認めなかったので、灯台の資金は、
町民の寄付でまかなわれました。機械は輸入しましたが、基礎
から灯台までは日本人の手で仕上げられ、総工費は2486円で
した。公共事業に町民が拠金したことになるので、当時の堺県
としては放置するわけにはいかなくなりました。そこで町民から
の借金返済のため、入港料を船の大小によって取ることにしま
した。明治10年から約90年間、大浜灯台はその使命を果たして
きたのです。その後、堺の海が埋め立てられ「陸に上がった灯
台」になったので、廃灯となりました。現在は、国の史跡に指定
され、保存されています。
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