あいらぶ堺 ものの始まりなんでも堺(文化・学問・芸術) |
堺には日本で最初というものが色々あります。それが、今日の堺を育んできた文化であり、 堺の人々の誇りでもあります。 |
[正平版論語] 道徳・政治・教育論を広めたのも最も古い 正平19年(1364)堺の人、道祐居士が開校した「論語集解」十巻は、論語の出版としては、わが国 でもっとも古い。中国の何晏が、論語の解釈を集めたのがその内容だが、巻末の「正平甲辰」の年 号は、堺が南朝(吉野朝廷)の門戸となっていた深い関係を示すものである。 [韻鏡]いんかがみ 字音の似た漢字が同行または同列となる様にした図表を刊行 鎌倉初期にわが国に伝来した中国の韻鏡を、享禄元年(1528)に、堺の光明院の宗仲が、を刊行 した。これは字音の検索に便利な図表とされ、構成は頭子音36字母の体系を横軸とし、韻書の 206韻の体系を縦軸としている。韻鏡は現存する韻図の最古のものとされる。 [医書大全] 医学の虎の巻刊行も堺が「日本初」 大永8年(1528)に、阿佐井野宗瑞が私財を投じ、医家の虎の巻ともいうべき医書大全を刊行した。 わが国における医書出版のはじめで、この難事業によって近代医学への道が開けた。 [隆達節] 高三隆は、シンガーソングライターの“はしり”だった? 達高三隆達は日蓮宗の僧で、堺の顕本寺内に住んでいたが、のちに還俗して高三の家で薬種商 を営んだ。天性の美声と作曲の才能を併せ持ち、連歌、声曲の創作を得意として世に隆達節と称 され、その時代の新しい言葉を織り込んでいて、身分の高い人から一般の人々まで、大いに人気 を集めました。現代の歌沢、小吹、都々逸などの多くが隆達節から発想している。慶長16年(1611) に85才で没した。 [千家の始まり] 茶道・草庵のわび茶の統一は千利休 茶道の統一をなしたのは村田珠光ですが、草庵のわび茶は千利休が統一したとされています。 千家はは利休の子・道安、養子・少庵の子・宗且にいたって復興を許されました。宗且は正保5年 (1648)その家を宗左に譲り、四男宗室と共に隠居しました。ここに、表、裏千家と家計がわかれ、 長男の宗守も武者小路千家と称されたので、三千家が確率しました。 [劇場の創始と堺の名優] 歌舞伎の芝居小屋は堺の村山座がはじめ 今でこそ、歌舞伎といえば大阪、京都、東京の劇場という事になりますが、かつては堺にも歌舞伎 が華やかだった時代があったのです。 寛永11年(1634)堺の村山又三郎が江戸の堺町に常設の芝居興行を許可され、村山座を建立しま し、取角力、砂子踊を芸題としました。これがわが国初の劇場の始めです。 また、天保13年(1842)豪奢な生活を責められて堺にきた二代目中村富十郎は宿院の芝居小屋で 興行し、女形として堺の子女を大いに陶酔させました。その他、多くの名優がこの地で出演し、見 物客を沸かせました。 [江戸浄瑠璃] 常磐津、清元etc。日本音楽のルーツは堺にあった!! 日本古来の音楽と言えば、常磐津、長唄、新内、清元…。その元となった江戸浄瑠璃を起こしたの は三味線の発祥地、堺の虎屋小平太(薩摩淨雲)という人です。文禄の頃、京都の沢住宅検校の 弟子となって音楽を習い、その優れた才能を発揮し、芸道の上達した慶長のはじめに御所で薩摩 掾さつまのじょうの位を受けた。寛永2年に剃髪して入道淨雲といった。小野於通の浄瑠璃12段によっ て、三弦物を長く世に伝えました。寛文12年(1672)に没したが、江戸浄瑠璃の元祖と仰がれた。 [喜多流謡曲] 喜多流の謡曲。堺には粋人が多い!? 中世から近世にかけて、自由闊達な空気が流れる堺では、文化が栄え、茶道・歌道を究めた人も 数多く現れました。その中で生まれた謡曲の流派が二つあります。一つは喜多流で、喜多七太夫 が初代の人で、市之町中浜に生まれ、桜の町に住んだ。7歳の時に能師勘太夫の弟子となり、 舞踏の妙を得た後に金剛新六の門に入り、技芸はますます上達した。雁和4年(1618)に一派をた てる事を許され、観世、宝生、金剛、金春の四座についで待遇されたといわれます。 [宮尾流謡曲] 宮尾流の謡曲。堺には粋人が多い!? もう一つは宮尾流。初代宮尾道三は、今春及連の家僕で、堺に来て上源町に住み、今春家の謡曲 の中から一流をうたいだし、宮尾流の一派をたてた。また千利休に従い、茶道にも通じた粋人で、 書道の名手ともいわれました。 [謡曲車屋本] 謡本を初めて刊行したのも堺の人 堺の車之町中浜に住んでいた車屋道悦は、師伝今春の門から一流の唱句を選んで自筆自刻した 謡本を刊行しました。これは世に「車屋本」と称されて、広く流布されたのはよく知られ、75番目の 謡本として今日も珍重されています。車屋道悦は寛永12年(1635)に没した。 [かき炉] 南宗時の実相庵は、利休の作だと伝えられている。昭和20年7月10日、戦災によって消失したが、 堺の有志茶人の手で再建された。席中は二畳台目下座床というさびた席で、炉の内側は四方を かいて大きな釜がかかっている。これは、かき炉の初めであるといわれています。 |