あいらぶ堺 ものの始まりなんでも堺 |
堺には日本で最初というものが色々あります。それが、今日の堺を育んできた文化であり、 堺の人々の誇りでもあります。 |
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[鉛丹] 中国伝来の絵具の製造を初めて許可された 中国伝来ののものと称せられている。丹の製造者7人に限って、幕府の公許でながく専売してい たが、堺の鉛屋市兵衛はもっとも古くから製造していた。「漢国直伝光明丹、日域泉堺宿院前、 丹屋市兵衛」の印鑑が堺市史にのっている。ちなみに鉛丹は絵具または工芸用に使用するもの で、鉛屋市兵衛の時代は元文2年(1737)頃の事です。 |
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[煙草包丁] 秀吉も認めたミセスパワー。堺包丁の名を高めた良妻“おたか” 16世紀後半に伝えられ、次第に庶民の間に広まったタバコ。その葉を刻む 包丁こそが江戸時代の堺の特産品、煙草包丁です。 煙草包丁の起源には2説あります。ひとつは、手名長兵衛が作ったという 「おかた(女房)包丁」の名で知られる出刃包丁。長兵衛が作るカミソリを 妻「おたか」が大坂で売るうちに、その切れ味の良さが秀吉の耳に入り、 煙草包丁を作るようになったと伝えられています。 もう一つは堺の旧家に伝わる書物の説で、梅枝七郎右衛門が作った「石 割包丁」が元になったというもの。名工として知られていた七郎右衛門 は、独特の方法で煙草包丁を打ったといいます。その包丁がとても良く 切れ、石を割るほど鋭いと評判だったので、「石割包丁」の名も生まれ た。「堺極さかいきわめ」という幕府の極め印を認められた堺の煙草包丁は 全国で売られ、その名を高めた。 |
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[堺緞通さかいだんつう] 「安価で高品質」と世界に知られた明治のメイド・イン・ジャパン 堺で初めて緞通(今のカーペット)を製造販売したのは、糸物商の藤本庄左衛門。 天保2年(1831)の事で、堺緞通第1号を織ったのは、機屋はたやの泉利兵衛でした。 堺緞通の元になったのは、佐賀の鍋島緞通や中国の緞通。1本1本手で編みな がら模様を仕上げる作業は、指から血がにじむほど大変なものでした。 明治に入り、庄左衛門の孫の藤本荘太郎は堺緞通を世界に広め、「緞通王」とい われるまでになりました。明治10年には東京での第1回内国勧業博覧会に出品。 堺緞通の名はこの時につけられたものです。そして、翌年にはアメリカやフランス にも輸出し、安価で高品質と好評を得ました。更に、明治26年にはシカゴ万国博 覧会に出品。藤本荘太郎自らが渡米し、アメリカの敷物業者、メーソンとの提携で 堺緞通はアメリカでも大々的に販売られました。ちょうどこの頃が堺緞通生産のピ ーク。緞通業者は3000人以上になり、堺の町を歩けば、あちこちから緞通を織る 音が聞こえるほどでした。その後、関税の引き上げや品質の低下で、輸出は下火 に。昔ながらの技術で堺緞通を作る工場は年々少なくなり、今では工芸品になっ てきています。一方、製造技術の近代化で、完全な機械織りが実現。敷物工業 団地が出来たのも堺が最初です。 |
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[自転車] 鉄砲の銃身が自転車のハンドルに?木製自転車を修理した鉄砲鍛冶 明治初年の自転車は庭園、遊園地の遊戯道具で、木製のものを乗り回し、実物が輸入されたのは明治3 年(1870)である。明治30年代の初め、北川清吉が堺の町を自転車で走り、人々を驚かせました。当時は 輸入品のみで、高価な為、上流階級だけの乗り物でした。自転車の本体は木製、車輪の部分などには鉄 が使われており、走るとガタガタと音をたてたので、「ガタクリ車」と呼ばれていました。北川清吉は堺で木 製自転車の貸し出しを始めた人でもあります。貸自転車は 大変人気を集め、人々は争って自転車に乗るようになりま した。しかし当時の自転車はブレーキもなく、故障や転倒 が続出し、修理が必要になりました。それに対応できたの が、修理に必要な技術を持つ鉄砲鍛冶だったのです。明治 35年(1902)頃、堺の近藤嘉吉が鉄砲鍛冶の技術を利用し て鉄製の部品・ハンドル、ホークの製造を始め、これがの 堺の自転車製造の最初になったといわれる。 やがて欧米の進んだ機械技術も取り入れ、部品製造から 完成品の組立を行うまでになり、堺の自転車産業は大きく 発展しました。現在、日本で生産される約3割が堺の自転 車によって占められています。 |
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[紙箱] 線香、刃物など特産品の容れ物として使用されていました 明治25年(1892)頃、堺の柳川某がボール紙で袋状の箱を作り、柳川精英舎を経営していたのが、わが国最初の 紙箱だとされている。のちに藤村与三郎が設備、職人つきで買い取り、現在の青山精英舎に至っている。この紙 箱は、やがて堺の特産品である線香、刃物を入れるのに利用され、全国的に普及した。 |
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[スコップとショベル] 打刃物の技術をい生かして製造に成功。折れず曲がらずの良質品と大評判 ショベル、スコップは、明治中期まですべて輸入品でした。明治20年頃、堺の打刃物問屋 6代目浅香久平は、東京で輸入品のショベル、スコップ、ツルハシなどを目にしました。そ れらの工具を見ていた彼の頭にひとつの考えが浮かんだのです。 「これからは、日本でも土木工事が増えるに違いな い。国産のショベル、スコップを作れば社会に貢献 できる!!」 それからは、日夜研究を重ね、数多くの障害を克服 して、2年後に試作品を完成しました。明治26年(18 93)には工場を完成。工業生産にこぎつけました。こ れはわが国初のことである。その後も品質改良を続 け、「折レズ曲ラズ絶対保証」のスコップ、ショベル は大評判。「気はやさしくて力持ち」の像のマークの 入った製品は、外国にも多く輸出されました。 |
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