あいらぶ堺 ものの始まりなんでも堺(産業-1)

堺には日本で最初というものが色々あります。それが、今日の堺を育んできた文化であり、
堺の人々の誇りでもあります。
[鉄砲製造]
堺を握る者が天下を制す! 5百挺に鉄砲が勝敗を決めた?
後の世を決めた大坂夏の陣。堺の鉄砲鍛冶・芝辻家には、その時豊臣方から5百挺の注文
を受けた記録があります。また同時に家康方からも一千挺の注文を受けていました。この
5百挺の差が、勝敗を決めたのかもしれません。信長がいち早く堺を直轄地として手に入れ
ようとしたのも、堺が鉄砲の生産地だった為。信長の天下統一への歩みも堺の鉄砲がなけ
れば成し得なかったでしょう。
ポルトガルから種子島に鉄砲が伝えられた直後、堺の商人・橘屋又三郎(天文年間1532〜
1554に活躍した人)が種子島を訪れ鉄砲の製法を学んで帰堺したのが、わが国の鉄砲製造
の起源となります。又三郎は「鉄砲又」といわれる程、鉄砲作りがうまかったそうです。又三
郎が持ち帰った鉄砲がすぐ堺で製造できたのは、平安時代から堺周辺で鋳造・鍛造の高度
な技術を持つ人々が活動し、その技術が伝えられていた為といわれています。
火薬の原料になる硝石を輸入できたのが堺だった事も理由としてあげられるでしょう。

今も昔と変わらぬ
法で作られてい
る堺の線香。


[傘]
自在に開閉できる傘はルソンみやげ。助左衛門が秀吉に献上
今のように開閉できる傘は、納屋助左衛門が南方貿易で持ち帰ったとされています。
文禄3年(1594)、琉球やルソン(現フィリピン)から帰った助左衛門は、豊臣秀吉にみやげ
として傘を献上。秀吉はことのほか喜び、この頃から傘が普及しはじめた。
それまでの日本の傘は、絹を張った長柄の「きぬがさ」や「朱柄傘」と呼ばれた紙張りの長
柄傘など。貴族や大名、僧侶といった上流階級の人々が使っていたようです。自在に開閉
できる傘は助左衛門が持ち帰る以前に、南中国から伝えられたとする説もありますが、傘
を身近なものにしたのは彼の商人パワーといえそうです。
さらに明治時代になると、一風変わった傘が登場しました。なんと商品の
広告を入れたレンタルの雨傘で、これを考え出したのも、堺の河盛仁平。
堺人の商魂のたくましさが伺える。

三味線]
犬?さる?たぬき?音色で選んだサムシェンの皮はメス猫
永禄5年(1562)、堺に住む琵琶法師に、琉球帰りの船乗りが土産に持ち
帰った珍しい楽器……これが三味線の始まりです。
この楽器はサムシェンといい、蛇の皮を張った2本絃のもの。琵琶法師中
小路は4本絃の琵琶に慣れていたので2本の絃ではドうも物足りません。
そこで、琵琶の絃を1本足してみると、味のあるいい音色になったといいま
す。中小路法師は、この楽器に更に改良を加えました。まず、丸い胴の部
分を角形に。ところが問題は、それに張る皮でした。サムシェンに張ってあ
った蛇の皮は堺では手に入りません。犬、猫、きつね、たぬき、猿と、皮の
薄い動物を色々試してみたところ、最も気に入った音色はメスの猫でした。
こうして、猫の皮、3本の絃を用いる三味線の原形が誕生したのです。

[線香]
今も昔も本物には人気集中。風雅な香りは堺から漂った
高級品志向の中で、いま堺の線香が脚光を浴びている。若い女性など芳香剤として楽しむ
人も増え、十年前と比べると、生産量は2倍に伸びているとか。
安土桃山時代の天正年間(1573〜1591)堺、宿屋町大道の薬種商小西弥十郎如清(キリ
シタン大名の小西行長の父)が韓国に渡り、線香の製法を伝習して帰り、日本で最初に作
ったとされ、堺は昔から時代を先取りする力をそなえていたといえるでしょう。
ことの起こりは南方貿易。交易品の中で最も珍重されたのは白檀びゃくだんや沈香じんこう
といった香の原料でした。ベトナムから輸入された伽羅きやらなどは“金一匁いちもんめ、伽
羅一匁”ともいわれ、大変高価だった事がわかります。堺の薬種商たちは香を大いに商い、
風流人の間に広めました。武士もまた香の愛好者でした。甲冑かっちゅうや衣服に香を焚き
しめ、戦場を駆け抜けたといいます。江戸時代、仏教徒の関わりの中で、人々が先祖の霊
の前に供えたのが、香を棒状に練り固めた現在の線香。

[堺更紗]
すり込みの更紗を「堺更紗」と名付けて製造・販売へ…
木綿または絹地に多彩な模様を染めた布を更紗というが、
室町時代の末期に南蛮船によって堺に輸入され、大いに
珍重されました。書更紗、鬼更紗、似更紗などの種類が
あるが、我が国では堺と天草地方などで織られ、のちに
堺更紗、天草更紗などが有名になりました。

[銀座]
家康と堺の銀職人がいなかったら「銀ブラ」も「銀恋い」もなかった?
全国には銀座という地名が約600近くあるとか。銀座という名は銀貨の鋳造所の事で、その
銀貨を日本で初めて作ったのが堺の人たち。その中で湯浅作兵衛(大黒常是)は、灰吹銀
と称する銀塊を売買していたが、慶長3年(1598)に徳川家康の命を受けて、伏見で銀貨の鋳
造にあたった。作兵衛は銀吹人(技師長)として、銀貨には「常是」および大黒像の絵を打っ
た。これが銀座のはじまりで、江戸に移った事から、今日の東京銀座の地名が生まれた。

[朱座]
漆器・朱肉の塗料として珍重された朱の製造所も堺に初めて設置
水銀を焼いて仕上げたものを本朱といい、中国から製品として輸入したものを光明朱といっ
た。慶長14年(1609)幕府は江戸、奈良、京、大坂、堺、長崎に朱座を置き、堺の小田助四
郎朱座仲間年寄りとした。朱座の創始はこの時である。

[大筒]
日本初の大砲も家康から発注され堺で製造
徳川家康が鉄張りの大筒製造を各地の鉄砲鍛冶に命じた時、引き受ける者がいなかった
が、堺の芝辻理右衛門がこれをすすんで拝命、慶長14年(1609)には本口1尺3寸(39cm)、
末口1尺1寸(33cm)、長さ1丈(3・3m)、珠目1貫5百匁(4・6kg)の見事な大筒を製造しまし
た。これがわが国における大砲の始まりです。
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