堺のへ道(堺と大坂を結ぶ秀吉の夢)
 堺の町は、いつ頃、歴史の舞台に登場したのだろうか。古代からの道に
探ってみよう。
 摂津・河内といった国郡里制は「大宝律令」(701)で定められたが、河
内国の南西部が独立して和泉国となる757年頃から、摂津と和泉の国境
の辺りを「さかい」と呼んでいたらしい。8〜10世紀に成立した「住吉大社
神代記」には、開口神社の社域が「北を限る、堺大路」と記されている。
堺大路とは、だいたい今の大小路筋に当たる。
 鎌倉時代の資料には「堺津」の名が現れる。「左に海が開けた『左海』
がさかいの由来」は、この地が津(港)として発展してから生まれた説で
あろう。平清盛以来の兵庫津(神戸市)が応仁の乱で壊滅し、代わって
国際貿易都市となった堺の名が宣教師により西洋へ伝えられた頃、大
坂には「水上の御堂」と呼ばれた本願寺がそびえていました。その寺内
町は、清水谷のああたりを南限として、上町台地の来北部分に十町は
あった。南には、四天王寺の門前町が千年の歴史を刻んでいた。
 本願寺を退去させた台地の北端に大坂城を築いた豊臣秀吉は、はるか南へと延びる首都建設に着手する。天正11年、宣教師ルイス・フロイスの報告書によると、「(秀吉は)市を拡張して大坂より三レグワ(約17`)を隔てた堺の町まで続けようとしている― 家屋は既に約二レグワの天王寺付近までできたという事である」
 そして、ゆくゆくは天皇の御所を京都から上町台地の北に還す発想も持っていたようだが、秀吉の死で巨大都市は成らず、江戸時代には堺と大坂を隔てるように、大和川が現在の位置に付け替えられてしまう。もし秀吉の構想が実現していたなら、上町台地の難波宮からまっすぐ南へと、今の金岡まで延び、飛鳥へ向けて東へ折れる、わが国最古の国道(大道)が近世の都大路としてよみがえっていたかもしれない。その南北の道は歴史に埋もれてしまったが、東西の道は大小路を起点に復活、河内平野を貫いて竹内街道と呼ばれた。

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