あいらぶ堺 地名から見る堺の歴史

なじみの深い土地の名前を通して、
ふるさと堺の歴史を、
支所ごとに主な地名の由来を紹介します。

中支所編(11/27) 南支所編(11/27)
西支所編(1/15) 東支所編(1/15) 北支所編(2/6) 堺支所編(3/12)

☆中支所編
 泉北高速鉄道深井駅を中心に広がる中支所は区域には、奈良時代の僧・行基に
ゆかりのある地名が数多くあります。行基は堺の家原寺えばらじで生まれ、15歳で出
家、民間布教と社会事業に一生をささげた名僧です。

八田(はんだ)
 行基の母は、蜂田古爾比売はちたのこにひめといいました。この蜂田首はちたのおびととい
う一族が、この辺りに住んでいたといわれています。蜂田氏の祖先を祭っているの
が、お鈴の宮と呼ばれている「蜂田神社」(現在の八田寺町にある)です。行基が
建てた蜂田寺(現在の華林寺)も、鈴の宮の近くにあります。この蜂田がなまって変
化したといわれています。

土塔(どとう)
 行基は一生の間に49のお寺を建てたといわれています。その一つが現在の土塔
町にある大野寺です。そこに、国の史跡になっている土塔があり、この珍しい土塔
が地名になりました。

深井(ふかい)
 行基は、この地に深い井戸を掘りました。それにより、人々の生活は豊かになっ
たといわれています。行基の掘った井戸は、単に飲む水だけでなく、どんな病気に
もよく効くといわれ大変重宝がられました。そのことから地名は深いと呼ばれるよう
になりました。井戸は、善福寺(深井清水町)の井戸であるとも、深井中町の外山
家の井戸であるともいわれています。現在では、残念ながら両方とも埋め立てられ
ています。
☆南支所編
 この地域は、泉北ニュータウンを中心とする市街地と、その周辺の農業を主とした
地域、森林地帯からなっています。
 泉北ニュータウン造成の時、500以上もの窯跡かまあとや、おびただしい数の須恵器
すえきが出土しました。5世紀に朝鮮半島から伝えられた須恵器は、瀬戸、信楽、備
前などの陶器の原型といわれ、400年以上にわたって生産が行われました。
 『日本書紀』にあるこの辺りの地名・「陶邑すえむら」から陶邑窯跡群と名付けられた
この遺跡は、800基近くの窯跡がある日本最大級の須恵器生産の遺跡です。

片倉(かたくら)・富蔵(とみくら)・高倉(たかくら)
 石津川の上流に位置するこの辺りは、陶邑窯跡群の中心にあたり、須恵器製品
や資材・燃料の運搬に最適の立地でした。この付近に建てられたと考えられる、須
恵器製品の貯蔵の為の倉庫群、「くら」が地名の由来になったと考えられます。
 一説によると、日本書紀にある「桜井屯倉みやけ(大和朝廷直轄の倉庫)」は、片倉
の桜井神社の付近ではないかと考えられています。また、高倉寺(高倉台2丁)は
もともと「大修恵院だいすえいん」「陶すえの寺」といい、須恵器との深い関わりがうかが
えます。

釜室(かまむろ)
 室むろというのは、山の岩間の洞穴を指して、「蔵」の意味もあります。須恵器製品
などを室に保管していたのではないかと考えられます。

☆西支所編
 この地域は、古くは四ツ池遺跡に見られるように縄文時代から弥生時代に集落が
形成され、近代では、石津川流域で伝統産業である和晒わざらしの製造が製造が行
われると共に、かつて白砂青松の自然海岸を有していた浜寺地区などは、関西一
円からの人々でにぎわいました。伝統行事として、鳳大社の花摘祭り、家原寺の
大とんどなどが知られています。

(おおとり)
 長く「大鳥」の字を使っていましたが、明治中期に郡名は泉北郡に、大鳥郡大鳥
村は「鳳」村に変わり現在の鳳各町に引き継がれています。「大鳥」は『日本書紀』
にもある古い地名で、大鳥連むらじという豪族がこの地に住んでいたことに由来する
と考えられています。古代から近代までは、西支所区域を初め現在の堺市域のほ
とんどを和泉国大鳥郡が占めていました。地域の中心地に、和泉一の宮といわれ
る大鳥神社があり、大鳥氏の祖先をまつってきたといわれています。広い境内に
は、沢山の樹木が生い茂り、古くから「千種ちぐさの森」と呼ばれ、親しまれてきまし
た。
 また、日本武尊やまとたけるのみことが、伊勢で病没した後、白鳥となってこの地に舞い
降りたので社を建ててまつったとの伝説も残っています。

浜寺(はまでら)
 「音にきく高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ」  一宮紀伊
 これは百人一首の中の歌ですが、昔は浜寺から高石までの海岸を、高師の浜と
呼び、「万葉集」にも詠まれた松林の美しい海岸線が続いていました。
 南北朝時代に、この地に三光国師が、大雄寺だいゆうじという七堂伽藍の大寺院を
建てました(中世の戦乱のため焼失)。
 この寺は、「高師の浜の寺」と呼ばれていましたが、「浜の寺」、「浜寺」と簡略化
され、地名になりました。


☆東支所編
 この地域は、古墳時代から須恵器の生産が行われ、中世には、その技術を生か
した「河内鋳物師」で知られる金工地帯として栄えました。近世以降は、河内木綿
の栽培や緞通だんつうの生産と、常に時代のニーズに合わせた特色ある産業・文化
を育んできました。
 昭和に入り、高野線沿いのベッドタウンとして大きく変貌しましたが、かつては狭
山池の利水による条里制や荘園の名残をとどめる美しい田園地帯が続いていまし
た。

野田(のだ)
 北野田には「二の坪、三の坪」など古代条里制の名残の小字地名が見られます。
野田の地名は、古事記にもある「多遅比野たじひの=堺市東部から美原町、羽曳野
市にまたがる広い地域」の原野の意味である「野」に由来すると考えられています。
北野田駅南側に、「野田城址」があります。野田城は、南北朝時代、野田荘の地
頭をしていた野田四朗正勝が築いた城で、南朝方の楠正成に従って、幕府軍と対
峙しましたが、三代目正康の時、この地で敗れ戦死し、多くの村民も犠牲になった
といわれています。人々を弔うために建てられた「大悲庵(大悲寺)」が南野田にあ
ります。

日置荘(ひきしょう)
日置荘北町には東池、西池など、この土地に特徴的な古代条里制の「地わり」の
形状が残っています。この日置荘の地名には、古代、太陽神の祭祀をもって大和
政権に奉仕していたといわれる「日置部ひきべ」集団の居住地であった「日置荘」が
おかれたことに由来しています。
明治時代に萩原天神に合祀されましたが、日の神をまつってきたといわれる「日高
宮(日高神社)」が、日置荘西町にありました。西村の庄屋である日置家19代目・
日置正美が日高宮に献灯した、「日置里常夜灯」がわずかに残り、往時の面影を
とどめています。


☆北支所編
この地域は、古くは日本最古の国道といわれる竹内街道沿いに集落が形成される
と共に、ニサンザイ古墳をはじめとした数多くの古墳や重要文化財に指定された民
家など歴史的文化遺産も豊富です。
また、伝統行事の百舌鳥八幡宮のふとん太鼓も広く知られています。

百舌鳥(もず)
百舌鳥の地名は、「百舌鳥古墳群」の名で全国的によく知られています。
日本書紀に、次の有名な地名起源説話があります。
「仁徳天皇が、河内の石津原いしつのはらに出向いて陵の造営場所を決め、工事をはじ
めたところ、突然、野の中から鹿が走り出てきて、工事の人たちの中に飛び込んで
倒れて死んだ。不審に思って調べてみると、鹿の耳から百舌鳥が飛び出し、鹿は耳
の中を食い裂かれていた。このことから、この地は百舌鳥耳原もずみみはらと呼ばれる
ようになった」
これから見ると、この辺りは大昔、石津原と呼ばれていたようですが、いつ頃から、
また、なぜ百舌鳥と呼ばれるようになったのかはよく分かっていません。
 なお、「もず」の字は「万代」、「毛受」、「毛須」、「裳伏」、「藻伏」とも書かれてきま
した。

金岡(かなおか)
昔、この辺りに、河内画師えしと呼ばれる、宮廷画家集団が住んでいて、奈良の大仏
殿に絵を描いたり、彩色をしたりするなど活躍していました。
その中から、当時唐(中国)風一辺倒だった絵画界に、独創的な画風で新風を吹き
込み、後の「やまと絵」成立のさきがけとなった巨勢金岡こせのかなおかが生まれたとい
われています。
金岡の地名は、この平安時代の画家・巨勢金岡の偉大な業績をたたえ、彼を祭神
として加えまつった金田三所宮が、金岡神社と改称したことに由来するといわれて
います。
 また一説には、昔、この辺りは、鋳造や鍛冶を業とする金屋集団の居住地であり、
多くの鋳物カスが田んぼから出てきて、金田かなたと呼ばれていたものが金岡になっ
たともいわれています。

☆堺支所編
この地域は、古代には仁徳天皇陵をはじめとする百舌鳥古墳群が築造され、中世に
おいては海外交易の要衝として経済的、文化的に栄え、東洋のベニスとうたわれる
など、歴史的に名高い地域です。
また、環濠都市の名残をとどめる土居川や内川、社寺など豊富な歴史的文化的遺産
を有しています。

「元和の町割り」と堺の町名
元和元年(1615)、大坂夏の陣で全焼した堺の町は、南北の大道筋、東西の大小路
筋を基軸に、碁盤の目のような整然とした町に生まれ変わりました。いまでいう区画
整理で、これを「元和げんなの町割り」といいます。約400年たった現在の街区形態も、
当時とほとんど変わっていません。
その後、堺は見事に復興、発展し、町の数は多いときで400余りにもなったため、次
第に大道筋に面した北半町から南半町までの24の町名と、縦筋の通りの名前とを
合成させた呼び方をするようになったりもしました。例えば「南大小路町」は、「市之
町」と「山口筋」を合成し、「市山の口」と呼ばれるようになりました。【図A参照】

丁目の「目」がつかない独特の呼称
明治5年(1872)の町名改正では、町名をより分かりやすくするため、通り筋ごとに形
成されていた町(=両側町)を、二街区くらいずつに再編し、大道筋に面した24の町
名を基本に、東側は、東の一番目の町、二番目の町ということで、○○町東一丁、
二丁…、西側は、○○町西一丁、二丁…としました(当時は一町、二町ともいった)。
例えば、図Aの東六間筋の東側(図中@)と市山の口(図中A)、それに南蛇谷町
の西側(図中B)をあわせて、市之町東一丁と呼ぶようになりました。【図B参照】
それぞれが独立していた町を東一丁や西一丁などに変えたので、町を細分する「丁
目」ではなく、町と同格の意味合いを持たせるために「丁」を使った訳です。以後、市
域は大きく発展しましたが、堺市では町を細分する場合も「丁目」を使わず、この由
緒ある「丁」に統一しています。

北・南半町(きた・みなみはんちょう)
南北端に位置する両町は、「元和の町割り」の際に縦幅が他と比べ小さくなったこ
とに由来するという。

北旅篭町・南旅篭町(きた・みなみはたごちょう)
堺の南北の入り口に当たり、旅人宿・旅篭はたごがあったことに由来するという。

桜之町(さくらのちょう)
戦国期からある町名で、桜の木が沢山植わっていたことに由来するという。

綾之町・錦之町(あやのちょう・にしきのちょう)
応仁の乱の兵火を逃れ京都から移り住んだ織物師たちが、「綾織り」、「錦織り」を
始めたことに由来。

柳之町(やなぎのちょう)
昔から堺の代表植物である柳の木が沢山植わっていたことに由来するという。
九間町(くけんちょう)
奈良時代、弘法大師が唐より帰国し、九間四面の堂「九間堂」を建立し布教した
ことに由来するという。

神明町(しんめいちょう)
奈良時代の初期の創建といわれる神明神社(後に菅原神社に合祀)があったこと
に由来。

宿屋町(しゅくやちょう)
旅人の宿場町で宿屋が多かったことに由来。

材木町(ざいもくちょう)
戦国期からある町名で、材木商の集住地であったことに由来。

車之町(くるまのちょう)
戦国期からある町名で、有名な能楽者・車屋同晰どうせきが住んでいたことに由来
するという。

櫛屋町(くしやちょう)
和泉櫛を扱う櫛問屋が多かったことに由来。

戎之町(えびすのちょう)
戦国期からある町名で、当地にあった戎神社に由来。

熊野町(くまのちょう)
もとは湯屋町ゆやちょうといい、湯屋(風呂屋)が多く並んでいた。一説に、菅原天神
の境内で塩風呂を炊き、人々に施したことに由来するともいわれる。明治5年、当
地にあった熊野神社にちなんみ、「熊野町」に改字、読みも次第に「くまの」に変わ
ったが、小学校などに「ゆや」の読みが残っている。

市之町(いちのちょう)
戦国期からある町名で、堺の町の中心地で、古来色々な「市」が開かれたことに
由来。

甲斐町(かいのちょう)
戦国期からある町名で、神功皇后が「甲かぶと」を納めてまつったことに由来すると
いう。

大町(おおちょう)
富裕者が多く住み、身代の「大なる町」というところから名付けられたという。

宿院町(しゅくいんちょう)
室町期からある町名で、住吉大社の頓宮(お旅所)を宿院といったことに由来。一説
に、寺社が多く、宿坊(宿院)が多くあったことに由来するともいわれる。

中之町(なかのちょう)
戦国期からある町名。昔、大小路筋を境に北荘と南荘に分かれていた行政区域の
うち南荘の中央に位置したことに由来するという。
少林寺町・寺地町(しょうりんじちょう・てらじちょう)
少林寺があること、また、寺地町は少林寺の寺地(境内地)であったことに由来。
新在家町(しんざいけちょう)
南荘にあった本在家町に対し、ニュータウンという意味で名付けられたという。

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