堺の人物伝-9
学問・教育の礎いしずえとなった人々
道祐どうゆう生没不詳
南北朝期の堺の人。正平19=貞冶3年(1364)、わが国最古の『正平版論語』を出版した。この
書は日本に儒学を広めると共に、中国の学者にまで賞賛された。この版木12枚が今も東京国
立博物館に残されている。
宗沖そうちゅう生没不詳
室町後期堺の光明院の僧。漢学者。享禄元年(1528)、『韻鏡いんかがみ』を出版した。これは中国
の音韻の体系を図表に示したもので、現存する組織だった韻図中最古のもの。中国では古く逸
書となったが、日本ではこれを研究する学者が多く、伝本も色々ある。
小川宗右衛門おがわそうえもん寛政4〜弘化3年(1792〜1846)
堺の人。堺の町で学問をする人が少ないのを憂えて、天保13年(1842)、堺奉行に郷学校設立
を願い出、北糸屋町(車之町山之口筋)に郷学所ごうがくしょを開設した。
生駒東太いこまとうた弘化4〜明治33年(1847〜1900)
江戸の人。のち堺に移り、明治7年宿院小学(現少林寺小学校)の校長となった。以来初等教
育で成果をあげ、生駒学校とまで呼ばれるようになった。堺市の教育に大きな功績を残した名
校長である。
鳳秀太郎ほうひだたろう明治5〜昭和6年(1873〜1931)
堺の女流歌人与謝野晶子の兄。甲斐町で生まれ、東京帝国大学工学部卒業。同大学や海軍
大学で教べんをとる一方、電気工学の研究を進め、直流電気の研究と科学教育に貢献した。
正木直彦まさきなおひこ文久2〜昭和15年(1862〜1960)
堺の人。東京帝国大学を卒業し、明治34年から昭和7年まで30余
年間、東京美術学校長を務め、美術教育に大きな功績を残した。
自著『回顧七十年』に父・正木林作や町の様子を書いている。
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