堺の人物伝-8
芸に技に花咲かせた人々
高三隆達たかさぶりゅうたつ大永7〜慶長16年(1527〜1611)
堺顕本寺の子坊、高三坊の第一祖。還俗シテ高三家に復帰した。天性美音であり、僧として学
んだ声明、諷誦をはじめ各種の音曲に精通し、小唄「隆達節」を創出した。これは室町時代の『閑
吟集』の流れを汲むもので、江戸時代に登場する様々な音曲へとつながる、重要な役割を持った
ものである。隆達はまた、堺流の書道もよくした。
喜多七太夫きたしちだゆう承応2年(1653)没
堺の人。市之町中浜に生まれ、桜の町に住む。喜多流能楽の始祖。勘太夫の弟子となり、舞踊
にすぐれた才を見せた。金剛流に独自の工夫を加えた独自の型を案出し、能五流のひとつ、喜
多流を興した。
鳥養道晰とりかいどうせき生没不詳
元禄期、堺の金春流能役者。車之町中浜に住む。のち独立して車屋流を称した。金春流の謡曲
の中から一流の唱句を選び、自書して出版した。これを「車屋本」と呼ぶ。
阪田三吉さかたさんきち明治3〜昭和21年(1870〜1946)

堺の人。幼少から将棋を好み、棋界に名を挙げて、大阪朝日新聞社専属
棋士となる。関根金治郎七段の好敵手と言われ、数々の名勝負と天衣無
縫の人柄で、その名を天下にとどろかせた。
昭和30年、日本将棋連盟から、名人位、王将位を贈られている。
曽我廼屋五郎そがのやごろう明治10〜昭和23年(1877〜1948)

堺宿院町大道筋西側に生まれた。本名和田久一、一名を一堺魚人と言
う。16才のころ中村珊瑚郎に弟子入り、珊之助と名乗る。旅回り役者と
して転々するうちに芸を磨き、「大阪にわか」の系統を引く新喜劇{五郎
劇}を創始した。庶民的な喜劇を自ら執筆、上演し、大衆の好評を博した。
その自作自演は1000作を超え、長く「喜劇王」の名を欲しいままにした。
「五郎劇」の伝統は、現在の松竹新喜劇に受け継がれている。
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