堺の人物伝-7 |
文芸で異彩を放った人々 |
牡丹花肖柏ぼたんかしょうはく嘉吉3〜大永7年(1443〜1527) |
京都出身。晩年堺に移り住んだ。宗祇について歌を究め、古今集 の伝授を受ける。後年、堺の門人にこれを伝え、「堺流」を創始し たほどの腕であった。連歌の中心人物として、各所で連歌の興行 を行い、文亀2年(1502)、後柏原天皇の勅令により新しい連歌の 方式を編み出した。これを「新式今按」といい、以後の連歌の規範 となった。 晩年、戦乱を避けて堺の豪商、紅粉屋喜平方に寄寓、紅谷庵(現 三国丘)に住んだ。酒、香、花(特に牡丹)を愛し、外出の際には 牛に乗っていたといわれている。多くの門人のうち、堺の人として は、「源氏物語」を書写した板東屋宗椿が有名である。 |
衣笠一閑きぬがさいっかん生没年不詳 |
元禄期堺の人。堺の最初の地誌『堺鑑』三巻を著した。これは堺の神社、仏閣、陵墓、古跡、 故事、地名、人物及び名物などについて、由来を詳述したものである。 |
策伝さくでん天文23〜寛永19年(1554〜1642) |
正法寺13世住職として、一時期堺に住む。頓智、軽口がたくみだったため、当時の大名たちに 愛され、その座敷に招かれる事が多かった。後、京都所司代・板倉重宗の依頼により、日頃の 頓智話や狂歌話をまとめ、死後、『醒酔笑』として出版された。現在の落語、小咄の原型ともい われている。本名は平林平太夫、安楽庵とも称す。 |
与謝野晶子よさのあきこ明治11年〜昭和17年(1878〜1942) |
堺甲斐町大道、銘菓の老舗駿河屋に生まれる。本名は鳳志よう。堺女学校 を卒業。文学的才能に恵まれ、夫となった歌人、与謝野鉄幹が創刊した雑誌 「明星」への参加をはじめ、長詩「君死にたまふこと勿れ」、『源氏物語』の現 代語訳など、浪漫派の旗手として和歌だけでなく広く文壇に新風を吹き込ん だ。代表的な歌集に『みだれ髪』『舞姫』『黒髪』などがある。 一方、婦人参権運動など、女性の地位の向上に積極的な姿勢をみせた。 |
山本梅史やまもとばいし明治19〜昭和13年(1886〜1938) |
堺の宿屋町出身。俳人。堺市役所に勤め、市会書記長を務めた。 『ホトトギス』の同人でもあり、『いづみ』を主宰。親しまれている 「堺音頭」の作詞者でもある。 |
河井醉茗かわいすいめい明治7〜昭和40年(1874〜1965) |
堺の北旅籠町大道筋の呉服商。河文に生まれる。22歳の時上京して作詞活動 を開始。関西に戻ってからは関西青年文学会の機関誌、『よしあし草』の刊行に 協力する。処女詩集『無限弓』で世に認められ、新体詩の開拓に力を尽くした。 |
村上浪六むらかみなみろく慶応元〜昭和19年(1865〜1944) |
堺出身。幼少の頃、神明町山之口に住む。貧より身を起こして、報知新聞に 校正係として入社後、森田思軒に見出され、写実的小説を発表して好評を 得る。『当世五人男』は特に人気が高く、大衆作家として不動の地位を築いた。 |
食満南北けまなんぼく明治13年〜昭和32年(1880〜1957) |
堺の名家食満屋に生まれる。早稲田大学文学部に学び、村上浪六に師事す る。中村雁次郎の座付作者として多くの歌舞伎作品を残し、俳句や書にも優れ、 上方文化の伝統を色濃く受け継いだ作風で、多くの人に親しまれた。 |
安西冬衛あんざいふゆえ明治13年〜昭和40年(1898〜1965) |
奈良県出身。幼い頃、堺に移り住み、短詩運動で活躍した。「てふてふが一匹た韃靼だったん海峡 を渡って行った」の詩、「春」は有名。昭和9年、堺市歌募集に当選、これが縁で堺市役所に約18 年間勤務した。 |