堺の人物伝-6 |
技法に生涯をかけた人々 |
春慶しゅんけい生没年不詳 | |
室町初期の堺の漆工。日本の代表的な漆器の一つ、春慶塗の製法を考案し、美しく精巧な漆 器を作った。手の込んだ手法で、春慶塗、堺春慶などと呼ばれて、高く評価された。 のち、瀬戸や伊勢に移り住み、晩年は茶壺師となったというが不明な点が多い。 |
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大黒常是だいこくじょうぜ寛永3年(1626)没 | |
堺の人。本名を湯浅作兵衛という。堺で灰吹銀という銀塊を売買していたが、慶長3年(1598) に家康の命を受けて、伏見で銀貨鋳造にあたった。これにより作兵衛は銀吹極、銀改役とな って、「大黒常是」と名乗る事になった。常是鋳造の銀貨には「常是」の刻印と大黒の絵が打 たれている。これが「銀座」の始まりである。のち江戸に移り東京銀座の地名をも生んだ。 |
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土佐光起とさみつおき元和3〜元禄4年(1617〜1691) | |
堺出身。土佐派の画家で、和漢諸名家の筆跡を研究し、土佐派の革新に努めた。筆致は鮮 麗で温雅、ウズラを描くのが得意で、描いたウズラに猫も飛びついたという。承応3年(1654)、 宮廷絵所預となり、土佐派を再興。光長、光信と共に土佐三筆と呼ばれる一方、狩野探幽と 共に画壇の二大家ともいわれた。 |
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芝辻理右衛門しばつじりえもん寛永11年(1634)没 | |
堺の鉄砲鍛冶、芝辻家に生まれ、鉄砲製造の技術に長じていた。慶長16年(1611)、徳川家 康の命により、口径1尺3寸、長さ1丈、砲丸重量1貫500匁の大筒を制作献上した。わが国 初の鉄製大砲である。 |
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榎並屋勘左衛門えなみやかんざえもん寛永20年(1643)没 | |
堺の鉄砲鍛冶の家に生まれ、家業を継いだ。徳川家康が江戸幕府を開いた時、御用鉄砲鍛 冶として重用され、その後、鉄砲年寄も務めた。江戸道三河岸に邸を与えられ、御用鉄砲鍛 冶として尽くした。 |
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梅枝七郎右衛門うめえだしちろうえもん万治4年(1661)没 | |
堺の人。もともと刀工だったが、包丁鍛冶に転身、「タバコ包丁」を作るようになった。これが 包丁の始まりといわれている。七郎右衛門の作った包丁は、切れ味が鋭く、砂岩をも割った ことから「石割包丁」と呼ばれた。後に「石割」を性とした。 |
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唐物屋久兵衛からものやきゅうべえ生没不詳 | 橋本桂園画像。作刀 だけでなく詩や絵画 に通じ、画人文人を 問わず、その家を訪 れる人は多かったと いう。 |
堺北町出身。江戸中期の鋳物師。製品の金色と地紋の調子は、唐物 かと思えるほどの名人だっが、意にそまないと注文に応じなかった。 享保19年(1734)には、菅原神社の吊燈籠を制作している。 |
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趙陶斎ちょうとうさい正徳3〜天明6年(1713〜1786) | |
長崎出身。書家。20年間僧籍にあった後、還俗として頼春水の門下と なる。王義之などの書を学び、楷・行・篆・隷の4書体の奥義を究めた。 明和7年(1770)、来堺。櫛屋町浜の枸杞くこ園と称した庵で晩年を過ご した。 |
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橋本桂園はしもとけいえん文化8〜明治13年(1811〜1880) | |
代々堺で刀鍛冶を営んでいたが、桂園の代に至ってますます名声を博 した。その作刀技術は金甲を割るほど精巧だったという。なお、画筆で も名をあげている。 |
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森二鳳もりにほう文政元〜明治24年(1818〜1891) | |
京都出身。書・画家。桐園・天半堂・靭堂・山堂などと号した。堺に移り 明治10年の明治天皇行幸に際し、絵画を天覧した。写生派的な作風で 知られる。また同23年には、英昭皇太后の御前で揮毫きごうしている。 |