堺の人物伝-5(下)
商才で世に名を馳せた人々
河盛仁平かわもりにへい天保4〜明治18年(1834〜1885)
堺の中之町出身。綿布問屋を経営、大船を造って国内物資の交流をはかった。神仏尊信の念が
あつく。社寺の再興に寄与、慈善事業にも力を注いだ。安政の大地震の時には、一千両の大金
を寄付している。
青木秀平あおきしゅうへい文政3〜明治16年(1820〜1883)
大坂出身。もとは田中屋久兵衛といって唐物屋(道具屋)をしていた。のち、名を変えて、人参、
寒天、茶などの交易で巨富を積み、薩摩藩堺屋敷の代表として戎島紡績所を建設。後年、政府
勧農寮堺製糸場用達を命じられた。
吉川俵右衛門よしかわひょうえもん享保15〜文化7年(1730〜1810)
江戸・浅草の人だが、安永6年(1777)、たまたま堺を訪れた際、
堺港の築港、修理の必要を痛感、翌年、幕府に築港を出願した。
寛政3年(1791)ようやく許可され、着工。大災害などの困難に
見舞われたが、20年目に完成させた。
正木林作まさきりんさく文政9〜明治27年(1826〜1894)
和泉国出身。堺に移り、明治元年、戸長商法集会所役員、学務委員、勧業委員、米穀取引所頭取
などを務める。明治19年養蚕伝習場を開設して場長となり、大阪の養蚕製糸業の振興に尽くした。
藤本荘太郎ふじもとそうたろう嘉永2〜明治35年(1849〜1902)
堺の車之町出身。祖父藤本庄左衛門が始めた緞通だんつう製造業tp継ぎ、文久2年(1862)、模様
摺り込みの段通を発明。機械の改善にも努めて米仏に輸出、海外に堺段通の名を広めた。戸長
も務め、商工会議所の創立にも尽力した。
鳥井駒吉とりいこまきち嘉永6〜明治42年(1853〜1909)
堺の人。17才で酒造業を興す。商才に富む上に先見の明があり、数々の
事業を興し、成功させた。明治20年、わが国最初の大阪麦酒株式会社
(現アサヒビール)を創立。また阪堺鉄道株式会社(現南海電鉄)をも創
設した。堺県会、府会、市会の各議員も務める。俳句、茶、書画にも造詣
が深かった。
鉛市兵衛なまりいちべえ文久元〜昭和2年(1861〜1927)
堺の市之町出身。代々続けた鉛丹、鉛白製造のかたわら、日本ガラス腕輪工業組合長、大阪ガラ
ス同業組合会議長、日本琺瑯ほうろう鉄器組合理事などを務める。明治26年から堺商業会議所(現
堺商工会議所)理事として実業界に貢献、市政にも尽くした。
宅徳平たくとくへい明治11〜昭和7年(1878〜1932)
堺の人。堺で「沢亀」という酒を造って、北海道やアジア地域などに堺清酒を広めた。鳥井駒吉と共
に大阪麦酒株式会社、阪堺鉄道株式会社などの創設に努力する一方、銀行、ガスなどの諸事業に
も尽力した。
河盛又三郎かわもりまたさぶろう慶応3〜昭和16年(1867〜1941)
堺の人。河又醤油株式会社を創設した。河又菌を発見する一方、
製造工程の機械化に成功、わが国の醤油業の先駆者となる。
市参事会員、市会議員として市政に貢献。堺商工会議所の設立
にも貢献した。
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