堺の人物伝-5(上) |
商才で世に名を馳せた人々 |
湯川宣阿ゆかわせんあ文明15年(1483)没 | 遣明船の図。堺か らの対明貿易は 湯川宣阿によって 始められ、約70年 間続いた。 |
堺の貿易商人。室町時代にたびたび琉球に 渡航して交易した。文明8年(1476)室町幕府 の命を受け、堺から明(中国)に渡り交易を 開いた。 |
|
橘屋又三郎たちばなやまたさぶろう生没年不詳 | |
室町末期の堺の商人。天文12年(1543)、鉄砲が伝来した後、種子島に渡って鉄砲の製法、使 い方などをいち早く学んだ。堺に帰り、鉄砲作りに励んで諸国に売りさばいたことから「鉄砲又」 と呼ばれるに至ったという。 |
|
日比>屋了慶(珪)ひびやりょうけい生没年不詳 | |
室町末期の堺の商人。フランシスコ・ザビエルが堺を訪れた時、手厚く世話をした。のち、宣教 師ガスパル・ビレラに洗礼を受け、『日本西教史』にジャック・ヒンフラ・リョウケイの名を残してい る。邸宅を南蛮寺として信者を集めた。その邸宅跡は今、ザビエル公園となっている。 |
|
納屋助左衛門なやすけざえもん生没年不詳 | |
室町末期の堺の貿易商人。呂宋るそん助左衛門の 名で知られる。文禄2年(1593)ルソン(フィリピン) に渡り、輸入したルソン壺が茶器として珍重され、 巨利を博した。のち、贅沢な生活が秀吉の怒りに ふれ、カンボジアに逃避したという。 |
|
小田助四郎おだすけしろう生没年不詳 | |
三河出身。江戸初期の商人。徳川家康の命で中国に渡り、水銀などによる朱の製法を持ち帰 った。慶長14年(1609)、堺に朱座が置かれた時に朱座仲間年寄りなり、朱の製造の特権を与 えられた。朱座の創始である。 |
|
木屋弥三右衛門きややそうえもん生没年不詳 | |
江戸初期の堺の貿易商人。朱印船を仕立てて、たびたびシャム(タイ)、カンボジア、ルソン(フ ィリピン)などに渡って交易し、海外事情を家康に答申した。元和9年(1623)、シャムの使節が 二条城で家康に会見した時、通訳を務めている。 |
|
谷正安たにしょうあん天正17年〜正保元年(1589〜1644) | |
堺の商人。沢庵和尚に帰依し、寛永5年(1628)、沢庵を開山にして海会寺跡に祥雲寺を創建し た。同16年、出家し、仏門に入っている。祥雲寺は戦災で焼けたが、枯山水の庭は残り、現在、 大阪府の指定文化財になっている。 |
|
西宗真にしそうしん正保3年(1646)没 | |
肥前の貿易商人。通称は九郎兵衛。キリスト洗礼名を類子という。たびびルソンに渡って交易 し、家康にルソン事情を報告したという。元和2年(1616)頃から堺に移り住んだ。晩年、日蓮宗に 転じて宗真と改名した。 |
|
中村彦左衛門なかむらひこざえもん生没年不詳 | |
江戸初期の堺の貿易商人。たびたびシャム(タイ)に渡航して交易していたが、寛永13年(1636) の鎖国令により帰国できず、シャムで没した。生前、シャムから送った「釈尊降魔成道図」は、 正法寺の寺宝として戦災にあうまで保存されていた。 |
|
松江宗安まつえそうあん天正14年〜寛文6年(1586〜1666) | |
堺の豪商で屋号は銭屋。明(中国)人を招いて紗地の金襴きんらんを織ったところ、銭屋切れぜにやきれ とよばれて珍重された。また、慶長元和の頃、白粉おしろいの製法を明人から習って製造した。 |
|
木地屋庄右衛門きじやしょうえもん生没年不詳 | |
江戸初期の堺の商人。松永久秀と対峙した武将、筒井順慶の後裔と伝えられている。幕府代官 高西夕雲こうさいせきうんにすすめられて新田開発に当たった。 |
|
久吉左衛門ひさきちざえもん慶長11〜寛文8年(1606〜1668) | |
堺の名家。代々魚屋を営む。秀吉の朝鮮半島進出時、肥後まで海路を案内し、黒い鳥毛の槍 を与えられた。これを船の舳先につけたことから、のち、堺の船は舳先に鳥毛をつけて、全国海 上航行自由の免許とした。 |
|
福嶋屋次郎兵衛ふくしまやじろべえ生没年不詳 | |
江戸初期の大坂の商人。陶器藩主小出有棟の命によって知恩院の修築を請け負ったひとりと 伝えられる。小出家とのゆかりから、一村独立新田として、福嶋屋の福をとって福田村とした。 |
|
布屋次兵衛ぬのやじへい元六10〜享保12(1697〜1727) | |
堺出身の商人。大和川のつけかえで、堺港が砂で埋没することを嘆き、その修築を幕府に願い 出た。次兵衛の熱心な訴えにようやく許されたが、工事着工前に31歳で亡くなった。 |
|
谷善右兵衛門たにぜんえもん延宝3〜寛保元年(1675〜1741) | |
堺出身の商人。布屋次兵衛の岳父(妻の父)にあたる。次兵衛の意志を継ぎ、多額の私財を 投じて堺港の修築工事を完成させた。茶の湯や華道、楽焼きにもすぐれ、焼いた物は、「谷焼 き」としてもてはやされた。 |
|
鉛屋市兵衛なまりやいちべえ生没年不詳 | |
江戸中期の堺の商人。絵の具などに用いる鉛丹は中国伝来のものといわれているが、丹の製造 は、堺と大阪の製造者7人に限られ、専売していた。中でももっとも古くから製造しており、元文2 年(1737)頃活躍していた。 |
|
竹中作右衛門たけなかさくえもん生没年不詳 | |
堺宿院町出身の江戸中期の商人。大和川流出の土砂が舟の運行を妨げるため、河口の附州 を新田にすることを志し、困難の末、宝暦2年(1752)に完成させた。現在の三宝松尾新田である。 |