堺の人物伝-2 |
茶の湯の道を拓いた人々 |
武野紹鴎たけのじょうおう文亀2〜弘治元年(1502〜1555) |
大和出身の茶人・豪商。のちに堺に移り住んだ。上洛して三 条西実隆に和歌を、宗陳・宗悟らに茶の湯を学ぶ。堺に帰っ てからは、北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅 して一閑居士の号を許された。茶道においては。わび茶を好 み、利休を初めとする多くの門人に大きな影響を与えた。 |
北向道陳きたむらどうちん永正元〜永禄5年(1504〜1562) |
堺出身の茶人・豪商。もと荒木と名乗っていたが、家が北向きだったので、北向 に変えたといわれている。茶の湯を究め、大林宗套にも参禅した。利休の師でも ある。 |
千利休せんりきゅう大永2〜天正19年(1522〜1591) |
堺出身の茶道の大成者。茶道千家の始祖であり、 茶聖と称せられる。堺の裕福な町衆、魚屋ととやに 生まれた。名を与四郎という。早くから茶の湯に 親しんで、北向道陳から東山風の茶の湯を、武野 紹鴎から珠光風のわび茶を学んだ。また、大徳寺 の大林宗套に参禅して宗易の法号を得ている。 茶の湯をもって信長に接近し、その死後は、秀吉 の茶頭として仕えながら、茶道を大成した。天正 15年(1587)の北野の大茶会では差配を振るうな ど、天下一の茶匠として権勢を振るったが、小田 原の役後、秀吉の怒りにふれ、自認した。怒りに ふれた理由はいくつかあげられるが定説はない。 墓は大徳寺聚光院にある。 |
山上宗二やまのうえそうじ天文13〜天正18年(1544〜1590) |
堺の茶人・商人。千利休から茶の湯を学び、利休や津田宗及と共に、秀吉の茶 頭も務める。その後、利休から学んだ茶の湯の秘伝を含む茶の湯生活30年の覚 書を残した。この「山上宗二記」は、茶道研究において、1,2を争う資料となって いる。 |
津田宗及つだそうきゅう天正19年(1591)没 |
茶人・豪商。堺の会合衆えごうしゅう天王寺屋に生まれ、父、宗達に茶の湯を学んだ。 千利休、今井宗久と共に信長に仕え、その後は秀吉の茶頭として3千石を得て いる。家には多数の名器を持ち、茶会に関する逸話も多い。 |
今井宗久いまいそうきゅう永正17年〜文禄2年(1520〜1593) |
大和の人。茶人・豪商。堺に来て 茶の湯を武野紹鴎に学び、女婿 となる。商才を発揮して信長に接 近し、摂津五ヶ庄の代官職、生野 銀山の代官職などを歴任した。 千利休、津田宗及と共に信長・ 秀吉に仕え、茶の三大宗匠とい われる。 |
織田有楽斎おだゆうらくさい天文16〜元和7年(1547〜1621) |
織田信長の弟。信長の没後は秀吉の御伽衆おとぎしゅう となり、関ヶ原の役では東軍に参加。大坂夏の陣以後 は京都二条に隠棲。茶道に親しみ、利休七哲の一人 に数えられ、有楽流を開いた。堺衆との交流も多い。 |