堺の人物伝-11(上)
堺の歴史を彩る人々
道範阿闍梨どうはんあじゃり治承2〜建長4年(1178〜1252)
堺の船尾で生まれ、17歳で出家。高野山正智院に住み、金剛峯寺の執行として高野山の中心
人物となった。一時根来寺と不和になり、讃岐へ流されたが、建長元年(1249)、再び、高野山に
戻っている。
養随@ようそうそうい天授2=永和2〜長禄2年(1376〜1458)
京都出身。一休の兄弟子で、後花園天皇の帰依を受けて享徳3年(1454)、堺南庄の陽春庵を
道場とした。反・常職人といわれる一休に対し、養Hは、大徳寺の住職を務め、教化にも熱心な
常職人であったらしい。
日親にっしん応永14〜長享2年(1407〜1488)
上総国の人。日蓮宗の布教のため、将軍足利義教に信仰を求めたが、容れられず、真っ赤に
焼けたナベをかぶせられてという伝説から「なべかむり日親」と呼ばれた。堺に本成寺を建て、
辻説法をしたことで知られる。
古嶽宗亘こがくそうこう寛正5〜天文17年(1465〜1548)
近江の出身。大徳寺76世となり、のち堺の南荘舳松に南宗庵(後の南宗寺)を創立。詩文に
長じ、達筆でもあった。後奈良天皇から、正法大聖国師の号を授かっている。
春林宗俶しゅんりんそうしゅく長享2〜永禄7年(1488〜1564)
丹後の出身。大徳寺98世になった。堺の禅通寺を再興し、中興開山といわれている。後奈良
天皇から仏道通大心禅師の号を授かった。
清厳宗渭せいがんそうい天正16〜寛文元年(1588〜1661)
近江出身。大徳寺170世。南宗寺14世となり、寺内に徳泉庵、臨江庵を開創した。正保4年に
南宗寺の山門、甘露門を建てた。
翠巖宗すいがんそうみん慶長13〜寛文4年(1608〜1664)
堺の医家、半井云也の子。江月宗玩に師事し、大徳寺195世となる。その後、南宗寺20世とな
り、能書家としても知られた。
松永久秀まつながひさひで永正7〜天正5年(1510〜1577)
三好長慶の家臣。堺に本拠を置いた。将軍足利義輝を殺害し、主家にあたる三好三人衆を攻
めるなど、下克上を体現した人物として有名である。東大寺の焼き討ちで悪名が高い。信長に
滅ぼされた。
豊臣秀吉とよとみひでよし天文6〜慶長3年(1537〜1598)

天正12年に、堺の人々に対して大坂城下への移転を
命じた。また、自ら出馬して、堺の町を囲む濠を埋め
させるなど、堺の軍事的生命を失わせ、その財力の
利用を考えた。
徳川家康とくがわいえやす天文11〜元和2年(1542〜1616)

本能寺の変の時、堺にいて報を聞いた。家康も、信長・
秀吉同様、堺を重視し、関ヶ原の合戦後、すぐ堺政所
を置き、直轄地とした。
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