堺の人物伝-1
人道・仏道に生きた人々
行基ぎょうき天智7〜天平勝宝元年(668〜749)

堺・蜂田出身の民衆布教の祖。帰化系
の両親のもとに生まれ、15歳で出家。
一生を民間布教と社会事業に捧げた。
生涯に建てた寺は、堺の家原寺をはじ
め49寺。農民のために池や灌漑かんがい
用水を開き、橋を架けるなど、土木事業
をもって民衆の救済にあたり、絶大な信
仰を集めた。
東大寺大仏建立事業にも加わり、天
平17年(745)聖武天皇から大僧正の
位に任ぜられた。
三光国師さんこうこくし正平16=康安元年(1361)
会津出身の僧。覚明といい、比叡山で禅を修め、応長元年(1311)、元(中国)
に渡った。帰国後仕えた後村上天皇から三光国師の号を授かり、堺・高師浜
に大雄寺を建てた。「高師浜の寺」が「浜寺」となり、今の地名となった。三光
川という小川もある。
一休宗純いっきゅうそうじゅん応永元〜文明13年(1394〜1481)

京都出身の僧。後小松天皇の落胤らくいんといわれ、「とん
ちの一休さん」のモデルとして知られる。大徳寺46世。永
享4年(1432)、堺に巡遊し、多くの堺衆の帰依を得た。奔
放な生き方から破戒僧と呼ばれる一方、天皇以下、多く
の人々に尊信された禅僧で、詩歌、狂歌でも著名。号は
狂雲。
蓮如上人れんにょしょうにん応永22〜明応8年(1415〜1499)

京都出身の僧。本願寺中興の祖。17歳で出家し、独学で
教典を修めた。畿内でも各地に寺を開き、堺の信証院(堺
御坊)で布教活動を行った。のちに本願寺8世となり、山
科に本願寺を再興。明応5年(1496)には、石山本願寺を
創建した。
大林宗套だいりんそうとう文明12〜永禄11年(1480〜1568)
京都出身の僧で、一時大徳寺90世となったが、堺に来て南宗寺の開祖となっ
た。三好一門はじめ、阿佐井野宗瑞、千利休、津田宗及、今井宗久など、堺衆
でその教化を受けた人は多い。後奈良天皇から仏印円証禅師、正規町おおぎまち
天皇から正覚普通国師しょうがくふつうこくしの号を授かる。
江月宗玩こうげつそうがん天正2〜寛永20年(1574〜1643)
堺の津田宗及の子。父宗及の縁で大徳寺、南宗寺に入ったが、慶長11年(1606)、
黒田長政が父如水の為に建てた龍光院に入り、のち大徳寺156世となった。
父の影響を受け茶道、詩書に造詣が深い。
沢庵宗彭たくあんそうほう天正元〜正保2年(1573〜1645)
但馬出身の僧。慶長12年(1607)、南宗時2世となり、同14年、大徳寺153世とな
る。元和兵火後、南宗時を復興し、祥雲寺も開山した。紫衣事件での流罪を許さ
れてからも南宗寺に引きこもるなど、たびたび堺を訪れ、教化に努めている。書画、
俳諧、茶道に通じた。
日Fにっこう天文元〜慶長3年(1532〜1598)

日蓮宗の僧。堺の油屋常言の子。三井寺、奈良、
比叡山で仏学を究め、神道をも修めた。特に説法
が上手で、人々の尊信を集めたという。永禄11年
(1568)、父常言の援助を得て、堺に妙国寺を創建
した。著書も多い。
藤ヶ谷恵然ふじがやえねん元禄6〜宝暦14年(1693〜1746)
堺出身の僧。熊野町専称寺7世義円の子。京都に遊学して仏学を究め、本願寺
宗学史上不幸の功績を残したことで名高い。『無量壽教義記』など著書も多い。
河口慧海かわぐちえかい慶応2〜昭和20年(1866〜1945

堺の在家仏教徒。探検家としても知られる。33歳の時と
47歳の時にチベットに入り、膨大なチベットの文献、植物
標本、民族資料、サンスクリット写本を集めた。その資料
は、関係学会の重要な資料となっている。
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