2011年6月X日。 梅雨ひとやすみのどんより曇った昼下がり、私は1人で人けのない山道を歩いていたがどうやら道に迷ってしまったらしい。若い頃には自信があった方向感覚も還暦も疾うに過ぎれば多少はに疎くなる。訳もわからずに山中をさ迷い歩いているうちに霧に包まれた森の中に紛れ込んでしまった。 その薄暗い霧の向こうに何やら怪しげな建物が見える。目を懲らして見ると、それは鬱蒼とした森の中にひっそりと建っているうらぶれた教会だ。この風景は確か以前に見たことがあるような気がするが、それが何時だっかはハッキリしない。 私は不思議な霊力に導かれるようにその教会のポーチに足を踏み入れて微妙に重く感じられた扉を開けた。古めかしい外観とは対照的に屋内はどこか荘厳な雰囲気に包まれている。正面には黒ずんだブロンズの十字架が掲げられ、その両側のステンドグラスから妖しく光が射し込んでいる。中央の通路を挟んで左右に座席が整然と並び、座っている大勢の人達が一斉にこちらを振り向いた。
「あれ?見たことのある顔や」 私の妻がいる、義父がいる、兄がいる、姉もいる。いとこ、はとこ、友人、知人、娘の友達、みんな笑顔でこちらを見ている。私は神妙な面持ちで呆気にとられていると、私の横に白いドレスを着た嫋やかな乙女が立った。そして私の左脇に彼女の右手を差し込んで組んできた。 よく見ると、純白のウエディング・ドレスに身を包まれた乙女は、7年前に25歳の若さで突然この世を去った娘の瞳である。薄いヴェールの中の顔色は、透き通ったような白さで、憂いを含んだ顔にかすかに笑みを浮かべている。 おお、なんと眩しいほどの美しい花嫁姿。今まで見た事のない、瞳の得も言われぬ美しさに「お前は世界で一番綺麗や!」と思わず呟いた。(親バカと言われても仕方ないが…)
私はいつの間にかラフなジーンズ姿からタキシード姿になっていた。 思いがけない出来事に興奮気味の私の腕は心なしか力が入り痙攣したようにピクピクと小刻みに震えている。そしてその腕にか細い白い腕が妖しく絡みついている。 これは「娘と一緒にヴァージンロードを歩きたい」という私の夢が叶わずに失望していた、瞳の結婚式のようだ。これは幻覚なのか? 怪訝そうに思っている私の気持ちを尻目に、全員が起立をして一斉に拍手をした。式場内に巻き起こる歓喜の渦の中、厳かにパイプ・オルガンが奏でられた。 演奏曲はワーグナーの『婚礼の合唱』か、メンデルスゾーンの『結婚行進曲』かと思ったが、イギリスの作曲家グスターヴ・ホルストの管弦楽作品を平原綾香 がカバーした『JUPITER』だ。 この曲は瞳が生前に好きだった曲で、その思いを私が引き継いで『NHKのど自慢』で優勝した、二人の心を繋ぐ思い入れの深い曲だ。 さあ、瞳の第二の人生のスタートだ。張り詰めた空気の中でガチガチの私は右足を一歩前に出した。だが、私のシンデレラはなかなか第一歩を踏み出さないでいる。 「どないしたんや、緊張してるんか?」 娘は声を発すること無く、うらめしそうな顔で私を見ながら首を横に振り、そして視線を下に落とした。足元を見ると私は左足でウエディング・ドレスの裾を踏んでいたのだ。
「あ、またやってしもた」 私は緊張をすると得てしてドジを踏んでしまうのである。「ごめん、ごめん」と言いながら左足を踏み直し、私はBGMの『JUPITER』に合わせて深紅のヴァージン・ロードをたどたどしい足取りで歩いた。「はた目から見るとぎこちなく滑稽やろな」と思いながら歩いた。 こみ上げてくる感動に浸りながら腕を組んで歩を進めていると、それまで家族3人で歩んできた様々な出来事が走馬灯のように脳裏を掠め、自ずと胸が熱くなってきた。目頭も熱くなり涙で潤み参列者の顔がかすんで微笑む口許だけしか見えない。
「うん?それにしても何かおかしい」 私は重い足取りだが、瞳はふわっと軽く重みを感じない。そしてタキシードの袖の上からでも、瞳の腕のひんやりとした冷たさが伝わってくる。何とも言えない不思議な気持ちに包まれながらヴァージン・ロードを進んでいると、祝福をしてくれて笑顔でいるはずの親族や参列者達はいつの間にか目頭を抑えたり、啜り泣いたりしている。中には嗚咽が漏れるのもかすかに感じる。 でもそれは気にしない。ここに居るみんなは感動してくれているんだ。のど自慢の時も娘の悲話を聞いた観客席で同じようにすすり泣く光景を見たのを憶えている。それよりもなにも、娘とは成人になってから腕を組むことなど一度もなかったので、私は嬉しくて喜びをしみじみ噛みしめた。 ヴァージンロードの先のステンドグラスに輝く祭壇の前で新郎に瞳の未来を託すと、私の娘から彼の妻になるのだ。めでたくて祝福をしなければいけないのに、嬉しいような悲しいような複雑な気持ちである。私は「この組んだ腕をまだ解きたくないよ、足どりを緩めてもう少しこのまま二人で歩きたいよ」と、お強請りをする子供の心になった。 しかしんがら私の切なる願いをシカとするかのようにパイプ・オルガンのテンポは厳かにかつ容赦なく淡々と進んだ。 長いような短いような、夢のようなひと時が終わりに近づいてきた。時計の針をこのままずっと止めたい気分に駆られるも、いよいよその運命の時が来た。
ところがである。新郎の顔が今ひとつハッキリしない。大事な娘を嫁にやるのだ。私は彼の顔をしっかり見届けたくて目を懲らして見るのに何故かボヤけている。年齢のせいではない。 新郎とバトンタッチをするために瞳が私の腕から組んでいた手を解くと、白い風船がふんわりと大空に吸い込まれていくように、羽衣を纏った天女が大空を舞いながらのふわりふわりと天空高く飛び去って行くように瞳は宇宙の彼方へ消えていった。 「なんでや、瞳〜、どこへ行くんや〜」 瞳が私達夫婦の前から旅立った5年前の悪夢が再び脳裏に甦り暫し悲しみにくれた。
やがて私は、やわらかな朝の光に起こされて浅い眠りから醒めた。 その時私は、言葉では言いあらわせない、高原の爽やかで涼しげな空気に似たような不思議な清涼感に包まれ、その余韻でしばらく至福の時が続いた。 これはきっと瞳が私にくれた、少し遅目の『父の日の贈り物』だとつくづく思った。
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